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言葉がぐるぐる回る日の日記

日記の土曜日は、いつもと同じこの書き出しだ。
夜中に目が覚める。
あれ何時に寝たんだっけ?寝る前は何してたんだっけ?
Fireの電源を入れると、読みかけのkindle本のページが現れる。

高橋源一郎さんの『国民のコトバ』を読んでいる途中で寝てしまったのだった。この本は筒井康隆さんが『創作の極意と掟』の「文体」という章で触れていたので購入したばかりだ。

レイモン・クノーの『文体練習』はフランス語だからこそ成り立っていて、筒井氏が日本語で『文体練習』を書くとするならいくつかのアイデアはあるもののクノーの「文体練習」にいくつかつけ加えただけになりそうだとのこと。その上で、

だが、高橋源一郎「国民のコトバ」は日本語で書かれた面白いことばを蒐集していて、(略)
なるほど現代日本における代表的文体はこのように選択されるものかと納得させられるのである。

というので、興味をそそられて読み始めた。たしかに笑いながら納得させられてしまう内容だ。まだ20%くらいしか読めていないので、感想はあらためて。

本がおもしろいので興奮して目が冴えたらどうしようと思ったものの、心配無用で気づいたら寝ていた。

スマホのアラームで目が覚めると6:30。自然に目が覚めたときと違って眠さを感じる。二度寝しないようにアラームをスヌーズにする。2回目のスヌーズを止め、起き上がる。今朝は準備がある。

カーテンを開けると曇りの見本のような、曇りらしい曇りの空が広がっている。高台から見下ろす位置からは近所のお宅の屋根が見える。鈍色に少し湿った瓦の屋根がツヤツヤと存在感を放っている。雨が乾きかけた色がまだらの屋根はなんだか少しうら寂しく見える。屋根の素材の違いでそう感じさせるのか、単に私の心がそういうフィルタをかけているだけなのか。遠くから鳥の声。鳥の種類はあいかわらずわからない。

PCの起動を待つ間にカードを引く。「ペンタクルの3」と「カップの2」。「経験を活かす。本音を共有する」とメモする。朝一の白湯を飲みながら、毎朝のルーティンはとばして哲学対話の準備。ざっくりとした説明用のスライドを作って、説明にどれくらいかかるか時間を計る。オンラインの主催は初めてだ。さてどうなるか。

一段落して朝食。昨晩作っておいたミネストローネやキャロットラペと、賞味期限が近づいているクラッカーで朝ごはん。ミネストローネは大量に作ったので、明日はこれにポトンとカレールーを入れて、カレーにする予定。

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昨晩、キャロットラペをまた2種類作った。スタンダードと、ツナ入りと。ツナ缶を、ふくやの「めんツナかんかん」にしたら明太子の味がピリッときいてよけい美味しいかった♪

食後、後回しにしたTrelloのレトロスペクティブとデイリースタンドアップを済ませ、9:30にはZOOMでスタンバイをする。今日の哲学対話は13名の参加予定だったがキャンセルが入り10時開始の時点で9名。今度からもっと多めに受付しておこう。

「弱さ」をテーマにした哲学対話はオーソドックスな形で、前半に問いを出しあい、後半はその問いについて対話をした。自分がホストなのに休憩中にネット接続が切れてしまいものすごく焦ったが、念のため共同ホスト設定をさせておいてもらったので何事もなかったようだ。よかった。みなさんに出してもらった問いの記録が消えてしまったことが悔やまれるが。

終わってそのまま哲学カフェ仙人のような方たちと哲学カフェのメタトーク。まだまだひよこ主催者にフィードバックをもらったり、全国的な傾向を共有していただいたりした。来月もまた楽しみだ。

お腹がものすごくすいたので、パスタをゆでてレトルトのミートソースと粉チーズをかけて昼食。その後昼寝。30分程で目が覚める。

録画しておいた新ドラマ「MIU」を見ながら「とろ~り練乳三昧宇治金時」のアイスを食べる。星野源さんは誰かに振り回されるという役が本当にうまい。振り回されながらも、しっかり自分を通す。そのへんは脚本の野木亜紀子さんのうまさでもあるのだろうけども。そして綾野剛くんを画面で見るのは久しぶりでうれしい。どんな役でもうれしい。悲しい話だが、年を取るほどホルモン分泌は減っていくので、好きな人がいるのはとてもよいことだと思っている。


さて、改めて哲学対話の振り返り。
今日、みなさんから出していただいた問いのなかから投票で選ばれたのは「誰に対して弱さを感じるか?」(←チャットが消えてしまったので言い回しが違ってたらすみません)。

人との「関係の中」で、「自分が」弱いと感じることが多い、という話から対話が始まった。全部の発言をメモできていないが、自分が気になった視点を、問いの形にしてリストアップしておこう(発言者のそのままの言い回しではないです)。

関係の中で感じる弱さというのは、何を弱さととらえているのか?
そもそもその人固有の弱さというものがあるのか?
弱さというのはすべて相対的ではないのか?絶対的な弱さはあるのか?
他人との比較によって弱さが生まれるのではないか?
マウンティングをする人は本来弱いのではないか?
組織、社会、コミュニティで「よい」とされる規範にマッチしていないと弱さとして感じるのではないか?
そういう規範やものさしのなかで、弱いから強いに向かうことがいいことなのか?それは弱さの克服と言えるのか?
車いすの人向けのレストランのように、ものさしが変われば弱さの基準はがらっとかわるのではないか?
社会的につくられた枠の外に出れば、弱さが弱さでなくなるのではないか?
弱肉強食と言われるようにそもそも常にたたかうものではないのか?
弱み、弱い、弱さはそれぞれ意味が違ってくるのではないか?
自分が弱みと認識しているもの。他者と比較すると相対的に弱く感じられるもの。状態としてある弱さがあるのではないか?
組織の論理から外れることが弱さの克服とは言えないのではないか?
自分の中にあるどんなことを弱みととらえているのか?
人が存在する限り、人に対して優劣で見てしまうことはさけられないのではないか?無意識でたたかいつづけるのではないか?
弱いことによる効用という面もあるのではないか?
助けてもらう力や受援力は、弱さが持つ強さではないか?
弱さの開示ができない、受け入れられる風土がないことが人間関係の壁になっているのではないか?
コンプレックスに近い弱み、人に言うときに身体が反応するような弱みとはどんなものか?
克服したい弱みとそのままでいいと思っている弱さがあるのではないか?


今日の2時間で何らかの「答え」や「共通解」を目指してたわけではない。だが、ぼんやりとでも、人それぞれの「弱さ」のとらえ方が異なることがわかり、かつその状態を少なくとも個々人がどう受け止めているかということは、共有できたように思う。

自分が深く興味のある「弱さ」というテーマに関して、自分以外の多くの人の観点を聞くことができとても貴重な時間だった。イヤホンで他の人の声を聞いているので、リアル「インサイドヘッド」(脳内会議)のような気がして余計におもしろかった。

哲学対話は、どのような「言葉のセット」を使って社会をとらえているかに気づく仕掛けにもなるような気がしている。言い換えると、自分から見える世界をどのように区切るかを決めているのはその人が使う「言葉」だということだ。ここはまだまだ楽しみながら探究を続けたい。来月は「笑い」をテーマに実施しようと思っている。テーマ無しの哲学対話ももちろんありだが、今しばらくはこのスタイルで続けよう。

ここまで入力をした時点で16時になっていた。
もともと違うことをしようと思っていたが、昨日ちょっと気になって手にとった翻訳家の柴田元幸さんと高橋源一郎さんの対談本『小説の読み方、書き方、訳し方』を読む。本が「気になる」ときというのは、明確な目的をもってその本を読むというよりは、その本に書かれている「何か」が自分を呼び寄せた結果、自分が今何を求めているのかに気づくというプロセスとなることが多い。もしくはその近辺でもやもやと考えていることにスーッと筋が通るというか。

そういう意味でいうと、自分はこの数週間は「文体」というものに興味を持っていて、その興味というのは、文体とは何か、文体はどう生まれるのか、文体は何をもたらすのか、という部分にある。さらに、自分は文体というものを理解することの向こうに何を求めているのか?という、自分でもよくわかっていないぼわぼわっとしたことに輪郭を与えていくことが、本を手に取る理由でもあるような気がしている。まだよくわからないが、高橋源一郎さんの本がそこでいろいろヒットしているので、勝手に「高橋ゼミ」に参加しているような受講生として、引き続きその探索を続けて行こうと思う。今はそんなぼんやりとした感じ。

リセットのためブルブルマシンに10分乗る。続いて床に膝をついてマシンに腕を乗せて、肩や肩甲骨まわりもほぐす。もともと背中のコリがひどかったのが、ブルブルマシンを買ったきっかけだった。

頭の中に、言葉がぐるぐる回っている。回り続けている。言葉は溶けてバターになったりはしないが、沈殿して泥となって自分の中にたまり、時間を経てから、自分の語る言葉として立ち上がってくるような気がしている。

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