見出し画像

思わず笑い、唸ってしまう。レーモン・クノーの『文体練習』

先日、リビングで『はじめての言語学』という新書を読んでいて、おもしろい箇所で自然にクスっと笑ってしまった。すると、たまたまその様子を見ていた次男が「本って、笑えること、書いてあるんだ」と言った。

次男は本をまったく読まない。字を読むのがめんどくさいと、漫画さえほとんど読まない。

「今まで、一冊全部読み切った本ってある?」と訊くと

「あるよ」

「え、何の本?」

「はらぺこあおむしとか、ぐりとぐらとか、大きなかぶとか」

「いつの話だよ(笑)」

とまあ、そんな会話を交わしたのだった。

そのときは「そうか、本を全然読まない彼にとっては、本はまじめなものであって、笑えるものではないんだろうな」と思って話は終わった。

で。
少し時間がたって考えてみると、私はそのとき、「内容」がおもしろくて笑ったというよりは、その「書き方」がおもしろくて笑ったのだった。

同じような内容でも、いやがらせかと思うほど難解な文章を書く人もいるし、すらすらわかりやすく理解できるものもあるし、それって「書き方」が大きいよなあと思い、俄然「文体」に興味が湧いてきた。毎日、吉本隆明氏の本で「もうちょっとやさしい言い方にできないものかなあ」と自分の不勉強を棚に上げて、悪戦苦闘していることも手伝って。

そこで、文体についてどんな本があるか探してみると、レーモン・クノーの『文体練習』という本が古典的な名作らしい。

「他愛もないひとつの出来事が、99通りものヴァリエーションによって変幻自在に書き分けられてゆく」という謳い文句に惹かれるが、カスタマーレビューを読むとちょっと迷う。何より、高い。200頁弱の紙の本で、3,738円って!

見なかったことにしようと思い買わないでいたものの、数日たっても気になっていて、結局、少し安い方のKindle版を購入した。それでも高い。好奇心に負けた。

で、早速どれどれと目を通して見た。

1番最初に、ベースになる話が書かれている。ある男が、バスの中でであった「いやなやつ」を、また2時間後に偶然見かけたという、本当に何気ない、短い一つのお話(40字×8行のお話)だ。

その話を、ぐだぐだとしつこく書いてみたり、暗喩だらけで書いてみたり、時間を逆行させてみたり、夢を見ているように書いてみたり、あいまい・不確かに書いてみたりと、本当に99通りに、書き分けられている。すべて異なる話のように思えてくるほどに、印象が違う。

こんなにも書きわけることができるのか!というそのことにまずは素直にびっくりした。あちこち皮肉も効いていて、思わず笑ってしまう。同じ内容(出来事)でも、書き方(文体)によって、こうも伝わり方が異なり、その書き手(語り手)の人物像をも、雄弁に伝えるのだなあということが、これだけ列挙されるとわかりやすい。

先日書いたアゴタ・クリストフの『悪童日記』も、芥川龍之介の『藪の中』や夏目漱石の『吾輩は猫である』も、「たくさんあるなかの一つの文体に過ぎないのだな」と思えてしまうほど、バラエティに富んだ文体がたくさん出てきた。そして、それを可能にする著者の編集力、言葉の選び方が相当なものなんだろうなあというところにも、唸ってしまった。


松岡正剛さんの千夜千冊でも、2000年と、かなり前にこの本が紹介されていて、レーモン・クノーをこう評している。

日本ならやはり寺山修司や高橋睦郎や和田誠の才能が彷彿とするが、どちらかといえば井上ひさしに数学の味をつけたというところだろうか。

たしかに、井上ひさしさんの本を読んでいると、あちこちで飛んで跳ねて転がってという、「ことばの遊園地」みたいな楽しさがある。そこに数学の味というのは、言い得て妙。

ともかくも、クノーの魅力はやはり「遊び」にある。“遊術”であり“遊学”なのである。いかに「知」を遊びきるか、その遊びを「知」のはざまにメビウスの輪のようにそっと戻しておけるのか、そのしくみを伏せないで見せること、これがレイモン・クノーの“編集術”なのである。

松岡正剛さんが言われるように、この作品でクノーは、大真面目に遊んでいる。全力で遊んでいる。その編集力の高さは特筆すべきものだろう。ついつい、クノーの他の作品も読んでみたくなる(が、今は読む本が大渋滞しているので、ちょっと保留)。

そして、クノーに負けずおとらず、これを訳出した翻訳者、朝比奈弘治さんもすごい人だ。訳者あとがきに、どのように翻訳をされたか書かれているが、読んでいるだけで気が遠くなりそうなご苦労をされたようだ。文法が大きく異なるフランス語の文体を、日本語で再現するというのは、たんに意味を伝えればいいものではなく、日本語として意味を再現する「形」にしなくてはいけない。これは日本語の文体を発明するようなものではないか。1つひとつの文体の訳出に関しての「注」も充実している。

そして、各ページの組み方も遊び心に溢れている。Kindleでありながら文字は写真形式でレイアウトを変えられないようになっていて不便だなと思ったが、このレイアウト自体も一つの「文体」だ。内容の面でも、その手間のかかり具合を思っても、本の値段が高いのも無理はないという気に、ひさびさになった。


この本がおもしろかったので、調子に乗って、類似の文体練習の本にも手を伸ばした。

アメリカのコミック作家、マット・マドンによるコミック版文体練習。紙の本しかないので、それを購入した。

これも、視点や組み立て、人物の関係性による反応の変化、そもそもの時間や空間の設定など、同じ話の軸でも描き方たはいくらでもあるんだなと、圧倒された。

パロディの元になっているコミックを知っていればもっと楽しめるのだろうけど、知らなくても十分おもしろかったし、現実の世界をどう切り取って描くか(書くか)ということに、たくさんの示唆があった。どちらかというと「文体」というより「視点」、「見せ方」という部分でインスパイアされる部分が多かった。


さらに。
日本のライター、星井七億さんによる『百合えっち文体練習』。内容が百合系なので、よい子は見ないでね、なのだが、

「トレンドブログ」風とか、「演歌」風とか、「意識高い系」とか「クソリプ」風とか、「悪徳」とか、ものすごく特徴をつかんでいて、ほんとそんな感じ!と、まじで吹き出してしまった。


七億さんのブログ「ナナオクプリーズ」の「桃太郎」シリーズなども読んでいて笑ってしまう。


『もし文豪たちが カップ焼きそばの作り方を書いたら』という本も何年か前に出版されたが、作家の文体のパロディもおもしろかった。そういう、「人の文体のクセをつかむのがうまい人」っているのだなあと感心してしまう。


今日はそんな風にあちこちと、仕事そっちのけで、「文体」の幅広さ、遊び心、そして奥深さにひたる日に、気づいたらなっていた。

ついつい笑ってしまう文章というのは、noteでもTwitterでも、たくさんある。それは、「あるある」という共感であったり、「そんなばかな!」という驚きであったり、「まじか!」というズレであったりと、「内容」に由来するところも大きいだろう。

だが、やはり「書き方」による印象が、かなり強いのではないかと思う。何かを伝えるとき、どんな書き方を選ぶかが、かなり大事だということだ。

これまで、毎日noteに「何を」書くかばかり考えてきていたけれど、「どう」書くかという、構成を含めた「文体」をもう少し考える必要がありそうだ。

ちなみに、なぜかわからないけど、今まで私が投稿した100以上の記事のなかで、ダントツでページビューが多いのがこの記事だ。

スキはすごく少ないのに、ページビューだけが毎日増えていくので、「悪い文章の例」としてどこかで紹介されているんじゃないかと不安になるくらいだ。おそらくどなたかのすごいアクセスの記事に、noteのアルゴリズムのおかげで金魚のフンのように、つながっているんじゃないかと予想しているのだが。

この記事も、奇しくも文体の話だ。文体診断ロゴーンというものも紹介しているが、そんなこともすっかり忘れていた。

なんだか、いつの間にかある種のパターンに陥りかけていた頭の中を、今日読んだ数々の本で、ゆるめて、拡げてもらったような気がしている。

今はまだ、毎日何かしらを書くだけで結構いっぱいいっぱいだし、『文体練習』のような本を読んだだけですぐにそんな風に書けるようになるわけではない。だが、今後も幾度となく見返しながら、「文章遊び」を、私もやっていきたいと思っている。これも「書く筋肉」をしなやかに鍛えてくれることになるだろう。

今日、冒頭に次男のエピソードを書いたのは、最後にそれをいくつかの文体で書き分けてみようという目論見があったからなのだけど、ここまでで力尽きたので、また別の機会に(汗)

サポートいただけたら跳ねて喜びます!そしてその分は、喜びの連鎖が続くように他のクリエイターのサポートに使わせていただきます!