タロットカードで哲学対話#4の開催レポート
毎月1回、「ウェイト版タロット」から1枚のカードを選んで鑑賞し、その後問いを出し合いながら哲学対話をしています。7月20日(木)に実施した際の様子をレポートします。
タロットカードについて
占いのツールとして知られるタロットカードですが、もともと中世ヨーロッパでは貴族の遊戯ツールとして使われていました。当時、貴族の間では絵画、彫刻、文学などの芸術作品から「隠された意味を読み取る」ことが、「教養」や「鑑賞力」と見なされていました。そのためタロットカードも芸術作品として金箔などの装飾を用いて豪華に作られていました。また、カードの絵柄には、当時の常識や真理(と思われているもの)が描かれており、遊びながらそれらを学んで理解するということが行われていたようです。
その後、庶民の遊戯のツールとして広がったタロットは、カバラなどの神秘思想や魔術結社、ユング心理学の影響を受けながら、現在広まっているような形になっています。現在、何万もの種類があると言われていますが、様々なデザインのものが発売され、アート作品として注目も高まっています。日本では占いやスピリチュアルなものと見られがちですが、海外では世界の神話や宗教、歴史との関係など、学術的に研究されています。
前半:カードの鑑賞
4回目の今回は、「Ⅻ 吊された男」のカードを鑑賞しました。書籍などで説明されているタロットの意味について話すのではなく、私たちが今ここでその絵柄からどんな意味を感じるか?を対話していきました。
●信号機のよう。髪も黄色、靴も黄色。色がくっきりわかれているので、その人のなかの役割が明確に区分されているのではないかと感じる。
●足がちぎれそう。片足だけでつられているので、痛そう。頭の後ろが光っているのが不思議。
●頭に血がのぼって痛そうだけど、顔が平然としているので、アイデアや思いが溜まって爆発するのを待っている感じもする。そう考えると、何かを生もうとしている苦しみに耐えているんじゃないか。そもそも痛いことや苦しいことを悪いことだとは思っていないのではないか。
●なぜ赤いタイツをはいているのだろう?足が4の形みたいになっているのはなんでだろう?洋服が下に下がってしまわないのは、ズボンみたいになっているから?靴だけ黄色なのはなんでだろう?この木は何の木だろう?そもそもなんで吊られなくちゃいけなかったのだろう?
●これはそもそも罰として人から吊るされているのか?それとも自分からロープのわっかに足をひっかけて、進んで吊られた状態をしているという可能性もあるんではないか。
●昔のあばれはっちゃくが逆立ちをして考えるときのように、考えるために逆立ちの変わりにという可能性もある。
●吊られて苦しいはずなのに、表情が苦しそうにも楽しそうにも見えない。瞑想やある種の修行のようなものなのかもしれない。
●頭の後ろの黄色は、キリスト教画の天使の輪や仏像の後ろの光背のように見える。だとしたらこの人は神様的存在として描かれている可能性もある。この絵をずっと見ているのはつらい。あとは全体がシンメトリーで描かれているのに、足だけアシンメトリーになっている。世界は左右対称じゃないということを、足をこう描くことで絵と世界のバランスを取っているのではないか。
●真っ直ぐ伸びる足と曲がっている足は、この世の陰と陽を表しているのかも。天と地がひっくり返っているのは、凝り固まった見方ではなく、ひっくり返して世界を見てみたらどうなるかと問いかけているのかもしれない。
●非対称な足の部分はやはり目が行く。赤いバッテンに見えるので、注意喚起の意味に感じる。あとは吊られている方の足は緊張感があり、曲げている方の足はゆるんでいるので、そういう別の種類のものがセットになっている違和感も、注意を引き付けられる。
●逆さづりで不自由な状態だけど、曲げている方の足は動かせる。この自由さが、吊るされていることに耐えるための救いになっているのではないか。
●頭の後ろの光りは喜びを表しているのではないか。身体は縛られていても、頭は縛られないで自由に考えられるというような。足が赤いのは、血や生命を表していて、洋服が青いのは叡智や知識を表している。
以上のような様々な意見が出されました。タロットに込められた本来の意味とは異なる解釈もあるかもしれませんが、複数の視点で見ていくことによって、パッと見た時にはわからないいろいろな意味を読み取ることができました。
後半:哲学対話
前半の話をふまえて、後半でフォーカスして深めていきたい問いを出し合いました。ここでは、カードについての問いを出すのではなく、カードについての対話のなかで出てきた内容から問いを立てていきます。6つの問いが出され、それぞれの方に「なぜその問いを考えたいと思ったか?」の背景を伺って、最終的には5つの中から選びました。
選ばれたのは、「私の中の多様性とは何か?」という問い。
短い休憩をはさんで、この問いについて対話をスタートしました。
●一人の身体の中には、役割があって、通常それぞれの役割がうまく機能している。そのうちの何かが欠けたり過剰になると病気や苦しみになる。私たちは世界や社会の縮小だと考えることができる。だとすると、世界や社会の多様性と叫ばれている今、自分の中の多様性とは何なのか?と思った。
●多様性について考えるのか、私という人間の多面性について考えていいのか。自分の中にいろんな自分がいる。精神面でいうと消極的で用心深い自分もいれば、アクセルを踏んでどんどん行く自分もいる。自分の中のチームワークということが、精神面だけでなく、身体でも行動面でもある。若い頃は統合できていたが、だんだんままならないことも出てきて、驚きを感じることがある。
●確固とした自分があるわけではないし、そこからはみ出るものもあるのでは。自分というのは1つの状態だと思う。例えば海は波が高いときもあれば凪いでいるときもある。そのときの状況によって出てくる状態を自分だとしたら固定した自分はない。ただ、自分のフィルターを通して見ている自分というのがあるだけ。だとすると、固定したものの様々な面という意味の多面性は、存在しないんじゃないか。
●自分が状況によって変化する状態だとしても、長期的、俯瞰でみたときにはある種の傾向というものがあるのではないか。例えば海であっても、比較的いつも波が荒い海もあれば、いつも穏やかな海もある。
●自分の多面性というのは、自分が自分に対して判断するものではなく、外から見て人が判断することではないか。また、たとえば、気分の上がり下がりの落差が激しい人がいたとき、それは上がったと下がった、2つの面と判断するのか。それとも上げ下げが激しいという1つの面なのか。
●その人が言っていることとやっていることが違うとき、ウソや矛盾を感じたときに二面性を感じるが、その人が意外な姿を見せたとしても、別の面を見たとは感じない。そうなんだと思うだけ。
●自分の中に、司令塔や管制塔のような自分をコントロールしている意識があると思っている。そういう統括している自分に対して、バラバラな自分が指令を裏切ることがある。そういうのがわちゃわちゃいることが多面性だと思う。
●自分の中の司令塔というのは、企業のトップダウンみたいなもので、矛盾するというのはそのシステムをひっくり返そうとすること。今の社会も、よいとされていたものが違うとされてきたりとひっくり返っている。人間もフラクタルで、同じことが起こっている。
●例えば、会社では仕事ができる優秀な人と見られていて、家に帰るといつもダラダラしている人と見られていて、お休みの日にサッカーコーチをするときはすごくいきいきのびのび子どものようにプレーする人だった場合、それをその人の多面性というのではないか?
●ホロスコープでは一人の人間のなかで10個の天体がそれぞれの質を発揮する。自分と言う全体のなかで、どの場面ではどの質が出るかと考えるとわかりやすい。
●自分で自分を見たときの多面性と他人が自分を見たときの多面性がある。本人の中では地続きであっても、他人はすべてを見ているわけではないから、面として切り分けやすい。本人の中では他面ではないかもしれない。自分を見たとき、そこに一貫性が見えないことが多面性となるのでは。
●そもそも自分の多面性なんてないんじゃないか?自分の中には多様な自分がいるけれども、それを外から見て切り取ることで多面性になるのではないか。
2時間の対話を終えて
後半の対話では、多様性や多面性という言葉を使っていましたが、じっくり聞いていくと、「自分とは何か?」という話になっていました。自分をどういう存在だと見ているか、そういった「自分観」の違いがありそうで、そこを共有してからではないと多様性や多面性と言う言葉の意味を共有できないのではないかという気がしてきました。時間切れでそれ以上は話せませんでしたが、、1枚のカードからこういった対話が生まれるというそのダイナミズムの面白さを実感できる2時間でした。
今後の開催予定
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