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村上春樹『若い読者のための短編小説案内』を改めて読む③ ~吉行淳之介の「水の畔り」~

本書で取り上げられている短編をそれぞれ読み、その上で、村上春樹氏の読み解きを楽しんでいこうという試み。前回から時間があいてしまったが、今日は吉行淳之介の短編「水の畔り」について。

過去の投稿はこちら。
①短編と読む視点
②小島信夫の「馬」


吉行淳之介氏について

吉行淳之介氏は作家・詩人の吉行エイスケ氏を父に持ち、昭和29年「驟雨」で芥川賞受賞。「水の畔り」が発表されたのは芥川賞受賞後の昭和30年(1955年)で、結核のために肺を一部切除する大手術を受けた後に書かれている。妹は女優の吉行和子さん。


「水の畔り」のあらすじ

主人公は肺に穴が開いており医師から手術を勧められる。しばらく経過を見たいとして、都会から汽車で3時間ほどの距離の小さい病院に滞在し化学療法を受けることになる。大きなT川の支流のそばにある病院で誰と話すこともなく安静に過ごす毎日の中で、主人公はことあるごとにある少女を思い出す。都会にいた頃にたまに会って食事をするくらいの関係の少女だ。あるときラジオから少女の声が聞こえた気がしたことで、気持ちが抑えきれなくなり会いたいと手紙を出す。1カ月ぶりに少女と会って時間を過ごすが、あることがきっかけでその関係に踏み込むことをやめ、また病院に戻る。病院に戻った主人公は、次第に手術を受ける気持ちになっていく。


読んだ感想

前回の小島信夫の「馬」的な「ドタバタ」とは違って、こちらはもう少し「ひらひら」としている印象だった。読んでいて気になったことは、2つ。

1)主人公がなかなか本流のT川を見に行かず、ついつい他のことをしてしまうこと

「川を見に行かない」ことは、逃げる心理、向き合わない姿勢、揺れ動く心を表しているのだろう。肺の手術にしてもそうだし、少女との関係にしてもそうだ。おそらく主人公の揺れ動く心理は、作家本人の当時の心理を反映しているのだろう。吉行氏は、結核により肺の一部を切除する大手術を受けたあと、芥川賞を受賞した。その後に発表された作品だけに、作家として生きていく覚悟のようなものが生まれ出るプロセスを描いたのではないかと思われる。

2)医師が飼っていた色とりどりの小鳥たちが、主人公不在の間にでっかい青大将に全部食われてしまうこと

ほんの少し出てくるだけのシーンだが、色とりどりの小鳥がわっと目に入ってくることが印象的に描かれていた。それが、ストーリーの最後の方で全部青大将に食われてしまうということは、何を象徴しているのだろうかと気になった。最初、小鳥は少女を表しているのだと思ったが、主人公は少女との関係に踏み込んではいないので、食われるというイメージと結びつかない。また、色とりどりの小鳥たちが、主人公の迷いや苦悩を象徴しているとしたら、それらがある1つの覚悟によってなくなるとも読めるが、今一しっくりこない。この後出てくるが、小説を書くことにおける「技巧性」を表しているととらえるのが、一番しっくりするかもしれない。その場合「青大将」は、「より深い自己」のようなものか。

村上春樹氏の読み解き

1)下手な文章

本書で春樹氏は、吉行氏のこの作品を、表現を変えながら何度も「下手」と述べている。

すらりと周りに混じりきらずにだまになって残っているような、いささか居心地の悪い箇所も見受けられます。
こう言っちゃ悪いけれど、まだ「下手」の領域に半分留まっている。
とにかく小説としてきまり悪いくらいごつんごつんしているのです。
往々にしてごつごつしていて、ぎこちなく、場合によっては下手くそでさえある


しかし、それは「よい意味」である、とも述べている。

もちろん僕はけなして言っているのではありません。逆にそこが素晴らしいのだと言っているのです。


そして、こんな風に解釈をしている。

「なぜこの短編は乱れなくてはならなかったか?」
この先品は、作品全体として、吉行さんの創作システムそのものをかなり明確に浮き彫りにしているような気がするのです。
うまく流れているみたいで、本当は流れていないというところに、吉行さんの作品の本当の魅力があるのではないかと。
つまり下手だからこそ、ぎこちないからこそ、しっかり心にひっかかるところがあるのだと思います。

最初「水の畔り」を読んだときは、そんなにごつごつしていると思わなかったというか、「そんなものかな」と思ったのだけれど、ここまで繰り返しその「決まりの悪さ」を述べられると、だんだんそのように思えてくる。

吉行氏の「驟雨」と「漂う部屋」という作品を読んでみると、そちらはたしかに技巧的な文章だと思った。比べるとやはり「水の畔り」はごつごつしている感じを受ける。だがその分、人間っぽさというか、主人公の内面の揺れ動きがずいぶん伝わってくるようにも感じた。

2)2つの世界とコミットメント

さらに、この作品の大きなポイントとして、「二つの対立する世界が取り上げられている」と述べている。

ひとつは東京のある町であり、もうひとつは病院のある水郷の街です。とりあえず前者を「技巧性の世界」、後者を「非技巧性の世界」として設定すると、この小説に出てくるいくつかの主要なファクターはみんなどちらかに収まってしまう。

主人公はそれまで東京において、

「技巧性」を「非技巧性」の上位に当然のように置いて機能させて、とくに問題もなく生きてきたわけです。

それは、少女に対しても同様で真っ向から向かいあうことなく、ひらりひらりとその時々である意味気まぐれにつきあいながら生きてきた。それが療養生活のなかで、離れている少女に対して「相手にもっと深く強くコミットしたいという激しい欲望」を抱くようになっていく。


そのことから春樹氏は、こんな風に分析をしている。

その時期の作家としての吉行さんが抱えていた、抱えざるを得なかった芸術面での自己形成に関するクリティカルな命題だったのではあるまいかと想像するのです。(※強調は引用者)
主人公が深刻な生命の不安のなかで、その孤独の中で、「技巧性」の壁を打ち破って、より深い誠実な「実体ある」自己に到達しようと多かれ少なかれ努力するのに呼応して、作者の筆も揺れ動きます。(※強調は引用者)
つまり自分の小説と自我とを、どのような地点で、どのようなかたちで対比させるかという大きな問題がここでとりあげられているんじゃないか
ここで吉行さんは、その自分の向かい合い方のスタイルに対して、自ら疑問を提出している。(中略)こんな技巧的なところに留まっていていいのかしら、そんなことをしていて「文学で生計は立てられるのか」と。僕にはそんな風に思えるんです。(※強調は引用者)

このあたりはまさに、作家だからこその解釈で、「おそらくそうなのだろう」としか一般読者としては思えない。だけど、そういった視点で作品を読み直すと、最初読んだだけでは気づけなかったものが見えてくるように感じる。


3)吉行氏の創作スタイル

最後は、吉行文学の「移動性」について多くの解釈がされている。

僕は吉行さんの文学の中心は技巧的「移動」にあると感じるのです。
彼は自分の位置を絶えまなく移動させ、ずらしていくことによって、外界との正面的な対立を、少なくとも小説的には回避しようとする。そしてまた外界との対決を回避することによって、自我との正面的な対決をもできるかぎり回避しようとする。
吉行文学は、いわゆる旧来の私小説的な意味での自我とのナマのかたちでの対決を、意識的に避けてずらせていくわけです。(※強調は引用者)
彼は移動のムーブメントそのものの中に、安定性を見いだそうとしているのです。
吉行文学の魅力というのは、都会的とか洗練性とかいったものよりはむしろ、彼の逃げ方の頑固な一貫性(consistency)や、その意外なほどの確信犯的たくましさの中にあるのではないでしょうか。(※強調は引用者)

この短編小説案内では、吉行氏の作品が1番に登場するのだけれど、春樹氏はかなり自身を吉行氏に投影しているのではないか、と読んでいて感じた。どこにもそのようなことは書かれていないけれど、かなり近しいものを感じているように思える。村上作品はどれも昔に読んで記憶は薄れつつあるけれど、その主人公の多くもまた、ひらりひらりとかわしながら生きていき、最後の最後でなにかしらに直面するというような、そんな印象があるからだ。

吉行氏の作品はまだいくつかしか読んだことがない。なので、今後「彼の逃げ方の頑固な一貫性(consistency)」を捜しながら、吉行氏作品を味わってみたいと思う。


文体について

文体について、吉行氏本人が語った言葉も合わせて紹介したい。吉行氏が選者となった『文章読本』のなかの「文章と文体」というエッセイで、こう書かれている。

昭和三十三年の末ごろ、一応自分の文体ができた、とおもっている。

ここで吉行氏は「文体」を「個性と文章とのかかわり合い」としてとらえると断った上で、

もともと、個性のもととなっている人間の性格は、じつに厄介ないろいろの要素の複合体である。そして、人間が成長するにしたがって個性がはっきりしてくるのは、それらの要素がさらに増えてゆくためではなくて、逆に個人が自分の中のそういう要素を点検して、あるものは抑制もしくは圧殺し、あるものはそれを育成するという作業の結果ではないか、と私はおもう。
あるいは、書きたいものの内容によって、それを表現するために幾つかの要素を拡大させる必要が起り、個性はアメーバ状の変化を起す。

と述べている。そう考えると「水の畔り」という作品はまさに、そういう自分の個性の「点検」をしたり、「抑制、圧殺、育成」などを行う過程で書かれたことになり、氏の文体確立後(昭和33年以降)の作品と比べると、その違いが際立って見えるのかもしれない。


また、中村明氏の『作家の文体』における対談では、自分の文体には作家・詩人の父親の影響もあるという風にも語っている。

実はいまだに読んでないんです。僕は親父の数ページの短編も。ちょっと読み出すと退屈するんですね。あまりにもキラキラした形容詞、形容句が多すぎるのね。それは親であるということも絡んでるでしょうけどね、気持の中に。で、ああいうんじゃないものを書こうということが根本にあるんじゃないですかね。(※強調は引用者)

これらの言葉からも、吉行氏が作家としての自分のアイデンティティを確立していく過程で、主人公が揺れ動く様を描いていることに、なるほどと納得をした。

いくつかの作品を読んだだけで、その作家を理解した気になってしまうのは危ういことだけれど、それでもただ1人で読むよりも、村上春樹氏を指南役として作品を読んでいくことで、作家への理解が膨らんでいくように感じている。次回は楽しみな安岡章太郎作品だ。


<参照文献>




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