見出し画像

哲学者の考えたことをライトに自分の人生に重ねてみる①ショーペンハウアーの「固体化の原理」

哲学は何の役にも立たないと言われることがある。世間の人にそう思われようと別にどうでも良い。

私は、哲学者の世界の見方を取り入れてあれこれ考えんで良いことを考えて、言語化していく作業が楽しい。そうやって、現実の解像度があがったり、自分の中に新たな世界の見え方が現れることが私にとっては深い喜びだ。

私は、休学したり、休職したり、退職したりしたことがある。今も療養中。(((何回療養すんねん!)))
なぜ、そうなってしまうのか。それは、ずっと私が現実社会への「適応」という問題を抱えているからであると思う。そこで引用したいのが、ショーペンハウアーの「固体化の原理」。

私がこの原理を知ったのは大学2年生の頃。2018年。ニーチェの『悲劇の誕生』の演習授業で知った。ニーチェが、自分の理論を説明するのに、引用したのがこの「固体化の原理」。その話をずーーっと今まで覚えている。他の内容はすっかり忘れてしまったのに、ニーチェの引用した箇所は大変気に入ってしまった。

そういうわけで、まず、ニーチェが引用したショーペンハウアーの記述をみよう。

「四方はてしなく、山なす波が、猛りつつ起伏している荒れ狂った海上で、一艘(いっそう)の小舟にひとりの舟人がすわり、そのたよりない小舟に命を託している。それと同じように、苦悩の世界のまっただ中で、個体としての人間が安らかにすわっているのは、『固体化の原理』にささえられ、それに命を託しているからである」。

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第一巻四一六ページ

この、固体化の原理は註で解説がなされており、それをさらに噛み砕いて説明すると次のようなことだと思う。まず、ショーペンハウアーという哲学者は、世界の仕組みの根底に「意志」というものがあると考えた。その「意志」の内容とは、混沌としていて、不合理で、苦しみや悲しみといった形のないものらしい。(ニーチェ『悲劇の誕生』西尾幹二訳:参照)

現代社会というのは、西洋科学が主流となっている。西洋科学は、ロゴスの世界だと思う。ロゴスとは、ギリシャ語で言葉を意味しつつ、理性をも意味する単語である。この、「言葉」と「西洋科学」というものは、解体していく作用の世界だと思う。

例えば、「私は色というものが好きだ」というと少し漠然としている。この人は少し気難しいとも思うかもしれない。それに対して「私は赤色が好きだ」と言うと安心する。赤というものは、色という漠然とした括りの中にありながらも、青や他の色に対して、つまり、他の色と区別して頭を整理整頓するような形で存在する。言葉の世界は、あらゆるものを区別して、整理して、どんどんとその対象を具体化する。ここで、行われるのは、具体化と個別化。具体化していく程に、それぞれが離れていく。料理から、日本料理、イタリアン、ご飯ものとパスタから、海鮮丼と、カルボナーラに、そして、高級店の海鮮丼から高級店の生卵の乗ったカルボナーラへと…。(カルボナーラ好きです。)

西洋科学と「言葉」の作用で共通するのがやはり、この区別と距離感。西洋科学は、観察から始まったと思う。観察という行為においては、「私」と「対象」が明確に切り離されている。西洋科学は、因果律(原因ー結果の関係)に支配されている。それも、この様に、モノとモノを切り離して考える世界観から成り立っている。有名な例だと、東洋的な考えでは、波を水の一部であることを前提とし、波を水の表現の一つとして捉える。決して波と水は切り離された存在ではなく、一体なのである。(雑な東洋思想の説明ですまん)
一方で、因果律というのは、風という外的なものが水を動かし、波というものを引き起こすと考える。風と水という別物の切り離された存在を結びつけて、その関係を考えることが因果律である。

個別化されたモノたちの世界である、「言葉」や「西洋科学」の世界において、モノは具体的なものへと凝固する。それは、非常に便利なことだ。性別も男女だけで分けると非常に便利だ。たった二種類で済む。その職場にいろんな個性を持った様々な人が働いていたとしても「女性陣はこちらに」「男性陣はこちらに」というように簡単に人を誘導できたりする。男女とか、子供とか大人とか、国内外とか、そういうのは便宜上頭の中の整理をしやすく、そして制度化したりしやすいだけで、様々なものを切り落としてしまう。性別やジェンダーに限らず、社会には本当に多様な人がいる。

多様というのは非常に複雑で、区分しきれないほどに豊かな世界であると私は信じている。そして、その豊かな多様な世界や心のありようというのは、区分しないとかなり抽象的なものなのではないだろうか。

ここで、固体化の原理の話に戻る。もう一度引用を見てみよう。

「四方はてしなく、山なす波が、猛りつつ起伏している荒れ狂った海上で、一艘(いっそう)の小舟にひとりの舟人がすわり、そのたよりない小舟に命を託している。それと同じように、苦悩の世界のまっただ中で、個体としての人間が安らかにすわっているのは、『固体化の原理』にささえられ、それに命を託しているからである」。

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第一巻四一六ページ

多様な個性や多様な心のありようというのは、まさに形がない。形がないものに私たちは不安を覚えてしまう。それは混沌としているから。つまり、ありのままのわたしたちのありようは、この引用で言うところの海だ。そんな荒波の上で静かに人間として安心して生活できるのは、「固体化の原理」が働いているからだ。この、私の話の筋に合わせるのであれば、それは言葉であったり、科学といったものが働いているそういう世界に生きているから、様々な問題や個性や豊かさを忘れて、日常生活が送れるということになるのではないだろうか。

私は、どうしてもその日常に適応できない。言葉で区別される世界から私はどうしてもはみ出してしまう。簡単に悲しみや怒りや喜びや楽しみという言葉に、ロゴスに還元できない心の世界で、荒波の中で生きている。明るく元気にハッピーになんていう簡単なスローガンの下に私は安心して生活することができない。世間の言う陳腐な優しさや幸せに満足できない。

そういう訳で私は現実に適応できず、荒波の世界の中で大事なものを目一杯大事だといって抱きしめているんだと思う。船の上でオールを漕ぐのは大変だし、せめて荒波であろうと、船が無かろうと、海に浮かぶくらいのことができるようになりたい。このブログもそんなブログになると良いと思う。