きれいはきたない、きたないはきれい

健康とお手洗いは似たようなもの。
緊急事態の時は全財産を投げ打ってでも手に入れたくなるのに、平常時は気にもかけない。

1ヶ月前に体調を崩した時は「もう終わりだ」と大騒ぎし、普段はろくに口をききもしないような人とさえきちんと向き合っておけばよかった、などと後悔した。もし元気になれたら外出時は絶対に手洗い、うがい、マスクをするんだ!って固く自分に誓う。体はだるくない?咳のしすぎで、ちょっと気管が痛んでるな。毎日検温は当たり前。自分の体に繊細な注意を向ける。

「健康」って、どんな状態だったっけ。普段、どれだけ自分の体に気を配っていないかに気付かされ、愕然とする。元気になったら、絶対覚えておこう。健康な状態を記憶しておけば、ちょっとした不調にも気づきやすくなるかも。

なんて心に誓って1ヶ月。いつのまにか、風邪は治っていた。本当に、いつの間にか。ふと気づいた時には、私の体は不調を訴えることをやめていた。「健康な状態」を記憶しておくことは難しい。だって、それが当たり前だから。自分が体験した不調、たとえば体がだるいとか呼吸がしにくいとか、そういった情報と比較することでしか、健康という情報をストックすることはできない。

本当は、毎日健康でいられるのはすごくありがたい事なんだろう。当たり前のような顔をして存在できているのは、最高の医療技術、清潔な環境、栄養満点の食事に支えられているからだ。それがどれだけ贅沢なことか、おバカな私は一度失うまで気が付かなかった。

元気でいること。大学に行けば、友だちが笑顔で迎えてくれること。日曜日にお気に入りのワンピースで都会の喧騒をかき分けること。
当たり前だった日常が、今はとても「欲しいもの」になった。「当たり前」って何だろう。わたしたちが当然とみなすものは社会情勢や環境に依存しているものであって、永遠に普遍な「当たり前」など存在しないのではないか。ある時は「当たり前」だったものも、時が変われば「特別」になる。つまり、どんなものでも「特別」になりうる素質を持っている。

そういう意味では、すべてのものや出来事は「特別」なのだ。馴染みすぎて、捉えることさえ難しいあれやこれだって。わたしたちは、すでにたくさんの「特別」に囲まれて生きている。「当たり前」は「特別」。でも逆に言えば、「特別」は「当たり前」。幸せは「特別」なこと?いや、それも「当たり前」にできる。物事は同じでも、どうやって意味づけするかは一人一人の自由だ。何を「当たり前」にして何を「特別」にしたいのか。自分で選べるってこと、自分で選んで、自分で自分の人生をクリエイトできること。それを私は私の「当たり前」にしたいな。