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かつてマセガキだった僕たちへ 「肉体の悪魔」ラディゲ著

好きな本を1冊だけ挙げるとしたら、私はレイモン・ラディゲの「肉体の悪魔」を選ぶ。理由は、年齢を重ねるごとに、自分の環境や恋愛事情が変化していくごとに、琴線に触れる文章が変わるのが面白いからだ。そして、子供の頃の不自由さや退屈さへの不満を思い出させてくれるからだ。

本書の魅力 -早熟な天才の恋愛観の変化に浸ろう

この本を初めて読んだのは19歳の時だった。センセーショナルなタイトルと、早熟な天才が書いた不倫が題材の自伝的小説、ということで、ドキドキしながら読んだのを覚えている。
やはり19歳の時と、アラサー人妻になった今では感想が異なる。それでも主人公が自分の内面の気持ちを見つめるときの鋭い視線に感嘆する気持ちは変わらない。ドキッとするようなことを指摘してくる文章には無駄がなく、静かな熱量が込められている。

いくつか私の好きな文を紹介したい。

一緒に溺れてほしい

彼女の両手が僕の首に絡みついていた。遭難者の手だってこれほど激しく絡みつくことはないだろう。彼女は僕に救助してもらいたいのか、それとも一緒に溺れてほしいのか、僕には分からなかった。

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫) 中条 省平訳

主人公は16歳、主人公と恋仲になる女性のマルトは19歳ということで、読んだ当時の私はマルトと同い年だったわけだが、当時一番好きなフレーズがこれだった。

一緒に溺れてほしい……好きな人と不幸になる幸せ、というのは様式美みたいなもので、女は特にそれに陶酔しがちな傾向にあると思う。相手に自分と同じだけの熱量を持って欲しいと思うことは、男女ともによくあることだろう。
求められたいと思う女の心理を、男側から分からないフリをして描写された、主人公の(そしてラディゲの)悪い男の一面が見える文だと思う。私としては、一緒に溺れてほしいことを分かった上で書いているのだと思う。

僕たちはみんなナルシスなのだ

たぶん僕たちはみんなナルシスなのだ。水鏡に映った自分の姿を愛することもあれば憎むこともあるが、他人の姿は目に入らない。自分の姿との類似を見分ける本能が、僕たちを人生のなかで導いてゆき、ある風景や女性や詩の前まで来たとき、「これだ、ここで止まれ!」と僕たちに叫んで教えるのだ。ほかの風景や女性や詩の場合、それをいいと思うことはあっても、本能の叫びのような衝撃を感じることはない。

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫) 中条 省平訳

私にも人生の中で本能の叫びを感じたことが何回かある。対象は人や人の言葉だったり、絵画や小説の一文、あるいは音楽だったりした。雷に打たれるような衝撃とよく言われるヤツだ(私は”天啓”と呼んでいる)。
何に惹かれたのかをうまく言葉にできないでいたが、それは自分との類似点だったのかもしれない。相手の瞳に映った自分の姿に恋をしているに過ぎないのだ。

自分という人間をより鮮明に、より美しく映し出してくれる鏡に恋をせずにいられるだろうか?きっとそんな女がファム・ファタールだと思う。
自分の形が曖昧だと不安になるから、その輪郭を際立たせてくれる存在を欲してしまうのだろう。これは男女ともに、また友人間でも言えることかもしれない。

やさしさはエゴイズム

僕はこれまで、やさしさを愚かしい感情だと思っていた。いまは、やさしさの大きな力を知っていた。僕の手入れで花々が開花し、僕が投げてやった穀物を食べて鶏たちは木陰で眠る。なんというやさしさ?──いや、なんというエゴイズムだろう。花々が枯れ、鶏が痩せれば、僕たちの愛の島がもの悲しく見えるからだ。僕があたえる水や穀物は、花々や鶏よりも、僕を養っていたのだ。

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫) 中条 省平訳

この文章は結婚してからとりわけ光って見えるようになった。家を快適に整えたり、季節にちなんだささやかなイベントを行ったりする歓びを知ったのは、夫と暮らし始めてからだったからだ。
このような行為を、相手の為に行っていると思ってはいけない。エゴイズムであることを、自分の為に行っているということを理解する必要がある。そのほうがお互いに幸せになれる。

マセている主人公が、徐々に湧いてくる愛ややさしさに困惑する自分自身を見つめる描写が、私の記憶に語りかけてくる。
なんとなく彼氏がいる方がイケてるかなと思っていた頃の私と、それなりに愛というものを理解してきた今の自分を圧縮して、一気に振り返って見つめているような感覚。懐かしいような、自分の幼さを恥じるような、そんな気持ちになる。

「肉体の悪魔」というタイトル

どの翻訳者のあとがきにもかかれているが、「肉体の悪魔」というタイトルはちょっと翻訳のニュアンス的には原題と異なるらしい。「魔に憑かれて」という邦題だったこともあるようだ。
この本を読んだ後、「結局、『肉体の悪魔』とはなんだったのか?」ということを考えた。私は”若さ故の衝動”みたいなものだと思った。コントロールできない衝動に突き動かされて、自分の中の獣が胸を食い破って出てくるのではないかと思うような激情。
道徳的に良くないことだとわかっているからこそ、不幸に向かって突き進んでいってしまうのではないか?
退屈な人生をドラマチックにするために、不幸に向かって進みたいのではないか?
そんな二人にとっては全てがエンターテイメントなのだろう。相手を傷つけて、それによって自分が傷つくことさえも。

私にもそういう恋愛しかできない時期があったので、よく分かる。ジェットコースターのようなアップダウンの刺激だけが、生きている実感だったかのような時期。あれはなんだったのだろう。
いつから私は"落ち着いた恋愛"をできるようになったのだろう。少なくとも学生時代にはできなかった。
年齢を重ねて衝動をコントロールできるようになったのかもしれないし、衝動自体が小さくなったのかもしれない。獣が暴れて檻から出ようとする頻度が減ったので、それは"諦め"によるものなのかもしれない。

子供は不自由、大人は自由

本の中では、主人公の「早く大人になりたい」という気持ちが溢れている。主人公とマルトの恋は、主人公が子供である故の不自由さや退屈さを、恋愛を通して大人になったつもりを味わうことで紛らわしているだけに思える。このことを象徴するような一文がある。

これまでは、欲しいものはすべて、子供だからといって諦めなければならなかった。そのうえ、人がくれた玩具は、お礼をいわなければならないという義務感で楽しさが損なわれた。そんな子供にとって、自分から進んでやって来る玩具は、どれほど貴重なものに見えたことだろう!

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫) 中条 省平訳

実は、私もマセガキで、”大人になったつもりを味わうための恋愛”をやってしまった過去がある。幸い勉学や部活動など打ち込めるものもあったので、長い期間恋愛にのめりこまずに済んだが、両親は心配していたことだろう。両親への反逆心もあって、一時的に恋愛に逃避していたのだと思うが。

大人になった気分を味わいたいという誘惑は、ティーンエイジャーの私には本当に魅力的だった。マセた子供は、周りの子供より退屈を感じている期間が長いのでなおさらそう思うのだろう。

私は大人であることの象徴は、「仕事」と「恋愛」だと思っていた。小説やドラマでそう描かれていたからだ。学生には仕事はできないので、恋愛は手っ取り早く”大人感”を味わえるツールだった。そういうツールとして、当時の恋人を使ってしまったことに対して今は罪悪感がある。
一歩間違えば相手の人生をめちゃくちゃにしてしまったかもしれない(これも、主人公とマルトの立場と一緒だった。年の差のある恋愛は、年下側は怖いもの知らずで、年上側が社会的に不利な立場に置かれるものだ)。

子供として生きる期間はせいぜい20年で、その後は自由に生きられるのだからと大人たちは言うが、子供として過ごす1年の体感の長さを忘れてしまったのだろうか?それとも子供時代にこの不自由さを感じなかった幸福な人たちなのだろうか?
今はもう1年をあっという間と感じる年齢になってしまったが、子供の頃に感じていた1年の長さを、私は忘れずに覚えていたい。

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