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何も変わらないでほしい

有名人の訃報が続いている。その度にパートナーと「最近なんだか多いね」と言い合っているが、とみに増えたというのは多分間違いで、実際は断続的に訃報が続いているんだと思う。
よく見知った人が亡くなるということはそれなりにショックで、日常のふとした時にそういえばもうあの人いないんだっけ、と思い出してはガーンとなっている。メディアの力はすごい。赤の他人を、こんなにも身近な存在にするんだから。

何かがなくなることが、いつまで経っても怖い。
誰かが死亡する、じゃなくても、引退するでも、お店をたたむでも、とにかくずっとあると思っていたものが二度と姿を現さなくなるのが怖いのだ。

2020年から今に至るまで、馴染みのお店がたくさん廃業した。またいつか行こうと思っていた大衆酒場や、海のよく見えるレストランも、今は吹き晒しの空き店舗になってしまった。
好きなアイドルが、彼の国の決まりに従って兵役に就いた。
事前に撮りためたであろうコンテンツを定期的に発信してくれるが、過去とか未来とか、よくわからない次元から届く手紙みたいで、見るたびに泣きそうになる。実際の彼は、髪の毛を短く切って、もしかしたら始まるかもしれない戦争の準備をしていると想像すると、どうしても嬉しさよりも寂しさの方が勝ってしまう。

数十年生きてきて、ずいぶん感情を隠すのが上手くなった。寂しさを笑ってごまかしたり、落ち込む人を励ましたりさえすることもある。
だけど本当は、怖いものは怖い。たまに極端に怖くなって急に泣くこともある。あの店よかったのにねぇと、せめて暖かくして元気で過ごして欲しいよねぇと、口では白々しく言えるが、強がっているだけだ。好きなもの、愛しいと感じるものが、自分の内側に入ってしまって剥がれない。私の好きとは自己同一化に近いのかもしれない。

あると思っていたものがなくなる、あるいは意図的になくすことを誰かが決めるのは、物事が常に変化しているからで、それを寂しいとか怖いと感じる理由は、そういうものが自分の一部ではないと気が付くからだろう。
自分の意図しないところで、自分の世界はどんどん変わっていく。誰にもそれぞれの生活がある。流行っていたものが見向きもされなくなる。
近ごろ、自分もそうして気ままに生きてきたということに気づき、ぞっとした。コロコロと住むところを移り、職を転々とし、変化を追いかけていたのは紛れもなくこの自分だ。人付き合いには淡泊なつもりでいたけど、もしかしたら私が離れていって悲しんだ人もいたかもしれない。周りには変わらないでいて欲しいと思うことは、大層なエゴだと思う。

変わることを恐れながら、自分もその中に身を投じずにはおれず、その矛盾のなかでどうにか生きている。自分だけではなく、一緒に暮らすパートナーも、肉親や友人も、芸能人たちも、さっき街頭ですれ違った他人たちもそうだ。
誰しも人は独立した存在で、他人とひとつにはなれない。そして自らも、ほんの少しの契機で変わってしまうような、危うい存在なのだ。私たちは、めいめい好き勝手生きるしかない。
その事実を何度も何度も突き付けられながら、皆どうにか悲しみをいなす術を体得していくのだろうか。
私はまだ、変化を座して受け入れられるような精神は持ち得ていない。

思い巡らせるうち、誰もかれもに愛着が湧いてきて、感情の収集が付かなくなってきたので、このあたりでやめにします。




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