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優しいあの子

大事なものは遠くに行ってからその大切さに気づく。気づいた頃にはもう遅いのに。


その子のことは好きだったけれど、それ以上に尊敬の気持ちが大きかった。好きという気持ちを抱いていたことには気づいていたけど、どこか恥ずかしくて、そんなわけないだろと自分の気持ちに蓋をしていたのかもしれない。

幼稚園の年中から小学6年生までスイミングスクールに通っていた。才能の有無は別として、進級テストの一級は取れるくらいの実力はあった。バタフライや平泳ぎも普通に泳ぐことができるくらいに。

その子を初めて見たのは、ポスターに掲載されていた写真だった。競泳選手を目指すようなコース紹介の写真。中高生ばかりの凄そうな人たちの中で、最年少で頑張ってます!と吹き出しに書かれていた。小2で、同級生か。ぼんやりだったけど、凄いなと思っていた。

小学3年生の始業式の日に、その子は僕の小学校に転校してきた。写真で見たあの人だ!勝手な想像で体格がいい人なのかと思ってたけど、思ってたよりは小柄だった。その頃はぜんぜん赤の他人だった。

その子の凄さに驚いたのは、小学5年生の時、市の水泳記録会に向けての練習の時だった。小学校の代表に選ばれて男子メンバーと練習していると、奥のレーンでとんでもない速さの平泳ぎをしているその子がいた。あまりの速さにみんな驚いていた。男子で僕が一番速く泳げたのだが、その子の平泳ぎのタイムが僕の自由形のタイムと同じくらいだったことに衝撃を受けた。

その子は水泳記録会の平泳ぎ50m部門で、大会新記録をたたき出していた。間近で見ていたから、会場の興奮した熱気を今でも覚えている。皆に「すごいね!」って言われても「そんなことないですよ」って謙遜しながらニコニコしていた。かっこよかった。好記録を出してもいつもの笑顔。不覚にもかわいいなと思った。改めて凄いと、より一層尊敬の気持ちでいっぱいになった。

中学校も一緒だったけれど、その子と話す機会はなかった。そもそも人と話すことが苦手。ましてや女子。話すなんて到底無理だと思っていた。でも、中学3年生の時に初めてその子と同じクラスになった。同じクラスになったことがなかったから、同じ教室にいることが不思議な感覚だった。

いつからそうなったのかはわからないが、掃除時間にその子が一人で職員室前を掃除をしているときに、僕が塵取りを持って手伝ったりするような関係になった。その度に「ありがとう」と言ってくれた。その笑顔が忘れられないくらい、可愛かった。

いつも優しくて、ニコニコ笑っていて、少しだけ天然で、でもぶれない芯を持っていた。男子からも女子からも好かれていて、その子の周りは明るい空気でいっぱいだった。

こんな僕にでも優しく接してくれた。些細な会話でも楽しかった。その子の笑顔の虜だった。

高校受験の頃、その子と僕は一緒に面接練習をすることになった。授業終わりの放課後、初めて行く校長室で面接官役の校長がいた。

ある放課後、校長との練習が終わって帰宅の準備をしていた時、「ねえ」と声をかけられた。一瞬、空耳かなと思ったけど、クラスには僕とその子の2人だけ。振り返ると「これ、あげるよ」と手作りのチョコをくれた。バレンタインデーのことなんてすっかり忘れていた。
「ありがとう、お互い受験頑張ろうね」
ポーカーフェイスでいつも通りに振舞っていたけど、嬉しさで爆発しそうだった。

ホワイトデーのお返しをしようと思っていた。けれど、卒業式後はすぐ春休みに入ってしまったからその子に会うことはできず、結局お返しはできなかった。寂しいな、そうやって僕の中学生時代は幕を閉じた。

もう会えないのか。高校は違うからしょうがないと思っていた。でも、放課後の電車で一緒になることが時々あった。目が合うとにこっと柔らかい笑顔。ほんの一瞬だったけれど、話せて嬉しかった。しんどかった部活の疲れも一気に吹っ飛んでいった。

季節が移ろいでいくと、その子と会うこともなくなっていた。寂しかったれけど、それはもう仕方のないことだから。

高校1年生の時は少しだけLINEのやり取りをしたこともあった。けれど、僕が携帯を機種変更してからその子の連絡先はわからなくなってしまった。どんな進路を選んでいったのか。その子のことはもう何もわからない。多分、僕のことなんて忘れてしまっているだろう。

その子と過ごした時間は、いい思い出になった。思い出として振り返る度に、好きだったその子はどこか遠くにいってしまう。いや、”その子”じゃ近すぎる。尊敬の気持ちが大きかったから、”あの子”が適切か。いや、いつも優しかったから、”優しいあの子”が一番しっくりくる。優しいあの子に出会えて本当に良かった。

再び会えるなら。話したいことが山程ある。ニコニコの笑顔にいつも救われていたこと。たまに君から声をかけてくれたことがあったけど、心の底から嬉しかったんだってこと。聞きたいことだってたくさんある。水泳を始めたきっかけは?将来は何になりたい?僕のことどう思ってた?

まあ、別に何とも思われてなかったかもな。



「恋に落ちたら」というザ・クロマニヨンズの曲がある。この曲の歌詞には、“あのね”という言葉しか出てこない。最初は変な歌詞だと思っていたけど、今になってこの歌詞がしっくりくるようになった。

勇気を出してあのねって声をかけても、その先の言葉が思いつかない。僕は君のことをそんなに知らないし、何を言えばいいのかが全くわからなかった。

それでも好きだったから。行動に想いを託すことしかできなかった。毎日ちりとりを持って手伝う。思春期の男子にしては、勇気を出した方だと思う。少しでも話したかったから。笑顔を一番近くで見てみたかったから。ありがとうって言葉が、かけがえのないものだったから。

何でもない距離感が一番楽しい時間だった。何でもない距離感が僕の青春だった。またどこかで会えたらいいのにな。そんな、今更振り返っても遅いよ。初恋って怖いほど忘れられない。他の恋とは違う。初恋はやっぱり特別なものなんだと知った。

言葉では伝えられなかったけど、せめて言葉として残しておきたくて。“あのね”の次の言葉がわかったからさ。


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