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今を生きた男のブルース ♯短編ハードボイルド


そいつはただ……、淋しかっただけさ。


テネシー州・メンフィス。
三年前、俺はある男の依頼で一ヶ月間その街で暮らした。パイプベッド、テレビ、缶ビールを十缶入れたら扉が閉まらなくなる冷蔵庫。家具といえるものはそれだけだ。白で統一された壁、天井、シーリングファン。要するに安宿だ。

気に入った事といえば宿の一階にある、道路にテーブルだけをせり出した食堂で、アフリカ系アメリカ人の女が作る、カリッカリに焼いたベーコンエッグ。

カリカリを歯に詰まらせながらビールストリートを歩いていた時だった。


そいつは通りの隅にいた。
五年間おなじ服を洗わないで着ている体(てい)の、垢蒸した男だった。ベコベコになったスチール製のゴミ箱の中に頭を突っ込んで残飯を漁っていた。そいつがすれ違い間際、バランスを崩してこっちへ転がり込んできた。

「にいちゃんすまねえなぁ」
その男の饐(す)えた匂いと生ゴミの腐敗臭に、朝からげんなりして思わずため息が出た。

「わかったから、こっちの事は気にするな」
そう言って距離を取りその場を離れようとした時、そいつが抱えている取っ手のついた小綺麗な箱が目に入った。

男が箱を大事そうに抱えて残飯を漁っているのが印象に残った。

ビールストリート。
メンフィスのメインストリートで一年を通して高温なこの街は、夜になるとCLUBやBARのネオン管によそ者が溢れかえる。さながら光に集まる虫のようだ。この街は様々な音楽の発祥地で、俺は特にメンフィス・ブルースが好きだった。

そこは表通りを二本入った地下にある、客足が少ないこじんまりとした一軒のBARで、俺は酒と音楽を楽しんでいた。
カウンターを拳で二回叩いてバーテンを呼ぶ。

「ブラッディー・マリー」
安いBARでは出されるカクテルは全てがぬるい。俺はこのぬるさも気に入っていた。郷に入りては郷に従え。メンフィス流だ。

「お兄さん旅行者?」
よそ者の男が一人で飲んでいると、こういった女は後を絶たない。

「1ドル」
それが魔法の言葉だった。あなたに払う金は1ドルしかない。俺はあなたを買う気はない。女が恨めしそうに俺から離れた時、ピエロを交えた腰の低いブレーメンの音楽隊が店の奥から湧いて出た。


その楽隊は三人で、身なりも身長も統一がなく凸凹だった。


煙草の紫煙と舞い踊る埃に、掠(かす)れたスポットライトが三筋(みすじ)の線を引く。薄暗い店内の隅に、こじんまりとしたステージがあり、収まりの悪い空気がけだるさを醸していた。

やがて、

中央のピエロが金色の木管楽器に口をつけた。
纏(まと)まりが微塵も感じられない楽隊がワンフレーズを奏でた後、道化師(ピエロ)のサックスが店を満たした。
色気のある排他的なメンフィス・ブルースだ。
俺は曲を聴いていつのまにか手の中のブラッディー・マリーに夕陽を見ていた。
それは幼き日の俺か、年老いた俺か。
暫くそうした心象風景に黄昏て、ぬるい夕陽を飲み込むと、この街の憂鬱<ブルース>に触れた気になれた。

曲はそうだな。

アンブシュアが絶妙だ。木管楽器が奏でるホワイトノイズが聴くものを酔わせる。それは奏者のセンスであり、人生の代弁であり、たゆたう時を儚(はかな)む魂の慟哭(どうこく)だ。

この街の憂鬱<メンフィス・ブルース>に酔いしれた俺がグラスをコースターに戻すと、背後から斜めの角度で女が声をかけてきた。

「あら、あなたのグラス空よ」
さっきの女だった。

「あのピエロはよくここに来るのか?」

「わたし、喉が渇いたわ」
俺は軽く顎をしゃくりそれを許す。
カウンターを正面に右に座る女を注視した。

褐色の肌を持つ混血<ハーフ>の女だった。アジアの血が入っているのだろうか。切長の双眸は大きく猛禽類<もうきんるい>を思わせて、しなやかな曲線の肌は健康的だった。
右手で頬杖をつき、小さな拳でノックを二回。バーテンを呼んだ。瞳は俺を離さなかった。

「トムっていうの。時々くるのよ。あの通り腕はいいの。でも宿無しなの。わたしと一緒」
形のいい唇がメゾソプラノで注文した。

「ああしてここで演奏する時は、決まってピエロの仮面(ペルソナ)を付けてくる。昼間のトムの顔を知る人はこの店にはいないわ」
「トムって呼ばれているのか、あのサックス吹きは」
女の視線を切って、ステージに目を向けると、トムと呼ばれるピエロはソロパートに移った。
トムの前に置かれた開けた箱に、客が紙幣や小銭のチップを投げ入れている。
その箱に微かな引っ掛かりを心に残した。


「あなたは何をしにこの街に来たの?」

「人を探しに」
俺はポケットの中に小銭を探った。

「ポリス。って感じではなさそうね」

「なぜ、そう思う?」
ポケットから出てきたのは、1セント。

親指で弾くとコインは放物線をえがいて、開いた箱に吸い込まれた。気分が良いとコントロールも良いらしい。

「わたし勘はいい方なの。あなたは?」

「悪い方だとは思わない」

「じゃぁ、私の言いたいことは分かるかしら?」
カウンターにグラスが二つ用意された。

「人を探しているんだろ?」

「ええ、もう見つかったわ」
女は鼻をくすぐる甘い匂いがした。

乾杯して酒をあおる。
グラス越しに形のいい眉を寄せて俺を見る女の凝視が、少し気になった。

*****

目が覚めると二日酔い気味だった。

昨夜は少し羽目を外した。いつも健康に目を向ける俺には珍しい事だった。もう少し睡眠で意識を飛ばしたほうが起きたとき楽になれるな。そう思いシーツに腕を這わせると柔らかい物にぶつかった。

明美(あけみ)だった。

昨夜BARで知り合った女だ。時刻は七時三十三分。数時間前の現実を思い返す。彼女を抱いてはいない……はずだ。
じゃぁ、なんで俺のベットに明美が寝ているんだ?
顔を見る。化粧を落としている。昨夜よりずっと幼く見えた。

……そうだ、BARを出たあと今夜の宿がないとごねられたんだ。だから仕方なく部屋に入れた。覚えている。

あぁ、何をやっているんだ!

俺は二日酔いの倦怠で考えるのが面倒くさくなってきた。
明美の肩が寝息とともに、ゆっくりと上下している。窓からホワイトブルーの朝日が差し込み、街の喧騒が遠くで聞こえる。

もう少し寝るか。
全てを棚に上げて彼女が起きるまでもう少し休もうとした。休めなかった。明美は薄眼を開けていた。

「おはよう。眠そうな顔してるわ……当たり前ね」
嬉しそうにメゾソプラノで言う。

「シャワーを貸して。浴びたら出て行くから」
ベットから滑り降りた褐色の肌が、部屋の奥に消える。
彼女の温もりと残り香が、その日の朝の始まりだった。


明美(アケミ)・Rose(ローズ)・ポートマン(24)
昼間は孤児院でボランティア活動をしていて、夜は、まぁ、昨夜の彼女を見ればその詮索は野暮に思えた。
明美は孤児院育ちで両親は幼少期に蒸発。当時五歳の明美が孤児院で泣いているのを施設の係員が保護。
それからの生活は、天涯孤独の根無し草。
どこまでが本当で、どこまでが嘘か知らないが、それが明美に関する俺の知っている全てだ。
一晩の酒の付き合いなら、それだけ知れば充分だろう?

だが、
その彼女がこの安宿で濡れた体を拭いている。

「俺が寝ている隙に金を取って逃げなかったのはなぜだ?」
ベットに座り財布の中身を確認しながら目の前の濡れた琥珀(アンバー・ストーン)に聞いた。

「わたしは犯罪者にはなりたくないの」

「昨日のあんたの商売は犯罪なんじゃないのか?」

「あら、悲しい誤解ね。わたしは何も売ってないわ」

ため息が出た。
俺は朝からこんな問答をしている自分が馬鹿らしくなったからだ。
先ずこの状況を整理する。目の前の女はコソ泥ではない。彼女と肌は合わせていない。だが、明美が一人で夜の蝶になっているとは思えない。すると後ろ盾があるはずだ。彼女は一晩俺と過ごしている。金がいるはずだ。俺はこの街で下らない小競り合いを起こす気は無い。
答えが出た。

ため息も出た。
そのあいだ明美は濡れた髪をタオルで巻いて、下着を身につけていく。
俺は財布から100ドル札を二枚抜いて、片手で差し出した。

「ありがと。遠慮なく頂くわ」
明美は札を受け取ると、ローズの刺繍がはいったブラジャーに挟む。

「なぁ、その金を受け取ったらあんたのなりたくない犯罪者になるんじゃないのか?」

「どうして?」

「商売成立だろ?」
明美はベッドに腰掛けている俺の膝の上に跨って、両腕を首に巻きつけてきた。

「いい。さっきも言ったけど、それは悲しい誤解よ。あなたが思うほど安い女じゃないわ。
わたしはあなたのガールフレンドなの。だから、わたしは泊まったの。このお金はあなたがガールフレンドにお小遣いをあげたの。だからわたしは受け取った。違うのかしら?」

メゾソプラノの声が、甘い。
明美と触れ合う皮膚の境界が、溶けていく。
遠くで聞こえる街の喧騒が、白で統一されたこの部屋を世間から切り離した。
頭上で回転するシーリングファンの風切り音が、俺の心拍と重なり始める。

「ボーイフレンドには、お別れのキスはしないのか?」
俺は形のいい唇を十センチ先に見つめて聞いた。

「ええ。するわ。200ドルのキスよ」

「ずいぶん高いんだな」

「安いほうよ」

*****

その日の午後、俺は小さな孤児院にいた。
そいつはミシシッピ川のほとりに建っていた。

テニスコート三面ほどの庭は、短く刈り揃えた芝の絨毯が広がり、三人掛けの木製ベンチが四つあった。
回転式スプリンクラーの散水が宙に弧を描き、虹が七色の線を引いている。サックスの音色が終止線の無い七色の楽譜を追って、ミシシッピ川の凪いだ水面に霧散していた。

その内の一つのベンチに年齢がまばらな子供達が一人の壮年のサックス吹きを囲んでいた。

「ジミー、もう一曲お願い」
「次は踊れるのがいいな」
「僕は何でも踊っちゃうけどね!」

幸せな絵といえるだろう。

俺はこの場所に約束の三十分前に到着していた。それは珍しい事ではなくて、仕事で身に付いたオートメーションな行動だった。他人が聞いたらワーカーホリックだ、と思う者もいるだろう。しかし、こういった時間も訪れる。
俺は明美に会いに来ていた。

「わたしの仕事を見に来て欲しい」とお願いされたからだ。
と、理由を付けてここにいる。

そして、俺がこの地<メンフィス>に来た理由もここにあった。

孤児院の入り口が勢いよく開き、子供達が振り返った。

「皆んな中に入って。お祈りの時間よ」
質素な布に身を包んだ一人の女が両手で手招きをしながら、メゾソプラノで声をかけた。
じゃぁね、ジミー。
と、子供達は名残惜しそうにしてなんども振り返り、その場を後にすると、俺に気付いた明美が子供に向けるような無邪気な笑顔で手を振った。片手を上げてそれに答える。

そうして明美と子供達は孤児院に入り、俺とサックス吹きの男だけがその場に残った。

「よう。サックスの演奏上手いんだな」
ベンチに腰掛けた男に近づいた。俺は男のサックスケースに目を向ける。この場の虹にそぐわない、悲しいまでに饐(す)えた臭いがだだよっていた。

「おれは、これに生かされているからなぁ」
垢じみた顔が皺くちゃになった。歯のない丸顔は鼻と顎がくっつきそうだ。男は愛した女に触れるように金色の木管楽器を撫でながら答えた。

「一曲、聴かせてもらえるか?」
ポケットを探る。苦笑いになった。出てきた小銭はたったの1セント。

「にいちゃん、曲は何がいい?」
愛した女<サックス>から目は離さず、そいつが右手を差し出した。

「ブルース<憂鬱>」
悪いな、といって指で弾くと、コインは宙で半円を描いて出された右手に収まった。

「メンフィス・ブルース<この街の憂鬱>だ」

曲が流れた。
曲が終わった。

俺は真顔で語りかけた。


「トム。いや、ヨセフ・ポートマン。あんた明美に自分が父親だと名乗っているのか?」


ヨセフの動きが固まった。
次の言葉を探していた。

この男はどこまで知っている?
この男は何をしにここにいる?

そうした疑心暗鬼と焦燥の苦い液体が脳髄から溢れ落ちて、重たくなる胃を満たしているのだろう。沈黙が流れた。
破ったのはヨセフだ。

「にいちゃん。ポリスってわけではなさそうだなぁ」

「俺がそんな立派な人間に見えるか?」
ヨセフは笑った。虹を仰いで、笑った。

「むかし話は好きかい? にいちゃん」

「短い話ならな」
俺は煙草を取り出して、ヨセフに勧めたが首を横に振った。火をつけて煙を吐きだす。
煙の輪郭が空に滲むと、ヨセフは話した。

「むかし、音楽に魅せられた男がいた。
その日暮らしだった。だけど幸せだったんだ。
ある日、家に帰ると子供を置いて妻が男と逃げたあとだった。男の稼ぎじゃ子供は育てられなかった。
それは男の言い訳だった。
男は逃げ出したんだ。音楽の道がなくなるからだ。小さい子供を施設に投げて、海外<そと>に出た。
逃げた先の未来は長続きしなかった。
十数年が経ち男がボロボロになって街に戻ると、男の知っている街は無くなっていた。
男はどうでも良くなったんだ。
男は名前も無くした。
ヨセフ・ポートマン? そんな男は知らない。そんな男はこの街には、いない」

話を聞き終えた俺は、ずいぶんとまぁ、自分勝手なむかし話だな。と話すと、あぁ、クソヤローのむかし話だ。とヨセフは返した。

俺はこの男<ヨセフ>の人生にこれ以上触れる気になれなかった。だから、仕事の用件だけを済ませる事にした。
それは明美のためであり、目の前のこの男のためではなかった。

「トム。もし、ヨセフ・ポートマンに出会ったら伝えてくれ、ポートマンの前妻、近藤玲子の兄、近藤真也がヨセフの命を狙いにこの街<メンフィス>に来ているってな」

孤児院の裏手の丘陵に明美と来ていた。
碁盤目状に整地された緑の中、数百と並ぶ白石の一つに膝を折り、明美は祈りを捧げている。
ミシシッピ川に照り返す陽光が、石碑に刻まれた文字と、瞳を閉じた明美の横顔で遊んでいた。

<玲子<れいこ>・Grace<グレース>・ポートマン>

もっとも美しいものは常に過去形で語られる。

気がつくと明美は瞳を開いてた。
「さっきのサックス吹きがトムだと知っていたんだな」
俺は隣で立ったまま聞いた。

「ええ、わたしがお店を紹介したの。だって彼、演奏とても上手でしょう? それに悪い人でもなさそうだし」

「あいつの宿は知らないのか?」

「それは本当に知らないの。本当の名前も知らないわ。気がつくとここに来て子供たちに演奏しているのよ」
明美の声は明るかった。

彼女はトムが父親だと知らなかった。だから俺は話さなかった。こういう話は時と場合が必要だからだ。
俺は必要なことを聞いた。

「明美、近藤真也という日本人を知っているか?」


「あなたの探している人?」
ああ、そうだよ。と答えると明美の手が嬉しそうに動いて、俺の腕を掴んだ。

「今夜、一杯飲<ヤ>る? その人お店に一昨日来たわ!」

俺の脳内で電気的誤信号<グリッチ>がけたたましく警報を鳴らした。

俺が受けた依頼は単純だった。
近藤真也を見つけ、事実を話して日本に帰国させる事。その為に俺はメンフィスに来ていた。

近藤真也の妹、近藤玲子は当時同居していた男に殺害された。犯人は行方不明。
玲子はヨセフとの籍は抜いていなかった。
結果、必然的にヨセフにその容疑がかかった。

だが、ヨセフはそのとき海外<よそ>でサックス奏者としてそれなりに名を上げていた。地球の裏側に同じ人間が同時存在<オントロジー>する事はない。そのシンプルな辻褄が合ったのは最近だった。

つまり、ヨセフは妻に手をかけていない。
新たな事実もわかった。明美の存在だ。
それを近藤真也に伝えるだけだった。

しかし、今は違う。

「明美、先に店に行ってくれ。トムか真也を見つけたらこの番号に直ぐに電話がほしい」
俺はメモに擲(なぐ)った十一桁を、繊細な指に包ませた。

どうしたの? と形のいい眉が俺に問いかけて「あなたに聞きたいことがあるの」と鮮やかな唇がメゾソプラノでいった。

「なんだ? 血液型か? 星座か?」
明美は首を振った。

「何か、危ない……危険な仕事をしているの?」
それを聞いて俺は笑った。勘のいい女だ。

「心配ない。頼む、行ってくれ。お前がいないと、パーティーが締まらねぇんだ」
親指で明美の目尻に指を這わせ、俺はビールストリートに向かい先を急いだ。

この馬鹿げた事態は一刻を争っている。

*****


夕暮れが近くなった。

多分そうだ。時間にしたら五時ごろか? いずれ灯るネオン管に観光客が群れ始めたからだ。
ビールストリートに来ていた。

俺は歩き続けた。
通りに溢れ始めたよそ者を其々(それぞれ)コンマ二秒、凝視する。視線を離す。凝視する。離す。

繰り返していた。
五秒のカウントダウンで開いた絵本の特定人物<ウォーリー>を探し当てるというガキの頃の遊びに似ていた。

あいつを初めて見かけた時、この道でゴミを漁っていた。だから、この近辺にいる可能性が高いだろう。

俺は歩き続ける。
喧騒が陰鬱にのしかかる。歩き続ける。喧騒が高層タワー十基分ほどの圧力でのしかかる。歩き続ける。

通りの外れに着くと強烈な腐敗臭が漂ってきた。裏路地のゴミが散乱しているからだ。仏教徒が描(えが)く砂絵の曼荼羅(まんだら)を無造作に崩したような混沌<カオス>がそこには広がっている。

くそっ、また振り出しだ。俺は歩き続けようとした。
カランッと乾いた音が鳴り、ほの暗い右の通りにスチール製のゴミ箱が転がった。

その混沌とした暗がりの先に見知った顎なし<ヨセフ>は立っていた。

見つけた!
通りに向かい一歩足を踏み出しそうとした。できなかった。
十数メートル先のヨセフと向き合う恰好で、こちらに背を向けた東洋人もいたからだ。右手にはここからでもわかるご大層なアーミーナイフをさげていた。

こいつが近藤真也か?
心臓が爆発的に脈付き始める。脳内シナプスに火花が散り、最悪な状況を瞬時にたたき出した。
しかし、二人は俺に気づいていない。

一歩踏み出した。
同時にこちらを向いているヨセフが東洋人から一歩退いた。ちくしょう! 時間がない。

どうやら覚悟を決めるしかなさそうだ。
と、言語化できたのは、二、三歩地面を蹴った後だった。

俺の走りに気付き東洋人がこちらを向いた。
が、とまどっていた。こちらの行動が理解できなかったのだろう。

チャンスだ!

やる事は決まっていた。俺は心の中で数を数えた。

一、
体当たりをする。(成功した)男の体が仰け反り、呻(うめ)きが漏れた。

二、
右腕を捻りあげる。ボコンッと乾いた音がした。肩を外してさらに捻る。男の悲鳴が路地裏に響いた。

三、
地面に落ちたナイフを蹴り飛ばす。ナイフは地面を滑り、ゴミの中に消えた。

四、
力任せに髪を掴み男の顔を確認した。幾度となく見た写真の男が苦痛で顔を歪ませていた。近藤真也だ。

五、
ヨセフを逃す。できなかった。

ヨセフは壁にもたれかかり腹を押さえて座っていた。投げ出した両足の延長で、ドス黒い血が尾をひいてくねり、掠れていた。

*****

孤児院二階。
ビロードで誂(あつら)えた葡萄酒色<ワインレッド>のカーテンを引くと、小さな庭が現れた。刈り込まれた緑の輪郭がミシシッピ川の靄(もや)で滲んでいる。遠くの街灯の光点が僅かに見えるだけだ。
早朝の力のない陽光がこの部屋を優しく照らしていた。

時刻は四時半。
俺と明美は警察と病院を往復して少し前にこの場所に帰って来ていた。
しばらく沈黙が続い後、椅子にもたれた明美が口を開いた。

「わたしには、わからないことばかりよ」
落ち着いたメゾソプラノだ。

「あの人はお店でいつも仮面をかぶっていた」
(古巣のこの街で、姿を隠すためだ)

「あの人は毎日ここにきて子供達にサックスを聴かせてくれたわ。みんなジミーが大好きだった」
(そう、自分の妻と娘に会うためにだ)

「名前をいくつも変えて、本当のことは何も話さないで……」
(おまえに顔むけができなかったんだ)


「ねぇ」

「パパは、わたしのこと愛してくれていたかしら」
小さな子供が親に怒られたときのような|末枯(すが)れた顔で、ビロードで飾られた窓の外を眺めていた。

「俺に聞かなくても、ずっと聴いてただろ?」
俺は素直に答えた。

「愛していたさ」
俺は真剣に答えた。


「あいつのブルース<家族への憂鬱>は本物だった」

しばらくして、
啜(すす)り声のソプラノがそっと、流れた。


ーto be Continuedー

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