いだてん最終回のきもち

一つ前のnoteにいだてん3週分くらい追いついていない、という話を書いていたけど、今日の最終回までにきちんと追いついてリアルタイムで観た。最高だね………。

こんな大河ドラマ観れるなんてなんて幸せなんだろうなと思う。胸がいっぱいだ。DVDボックスを買うつもりだし、ムック本も買うので、これからまだまだこの作品のこと考えて楽しめるとおもうとたまらない。

これからいだてんの素晴らしさをたっぷり考えるとして、それでも最終回の良かったところを1つだけ挙げるとすれば、聖火の最終ランナーが金栗さんに僕は何者でもないんですって、吐露するシーンだ。
『いだてん』が失敗者たちの物語であることが多分そのセリフと深く結びついていたと思う。

何者でもないこととか、とるに足らないものが、この世で一番大切じゃんねぇ、ってわたしは結構本気で思っていて、それをじくじく今週は考えていた。考えていたことと、『いだてん』という物語は少し遠くの地点にあるけど、それでも確かにちょっと似ていると思う。

ここ数日、鳥公園の『長いちらし』のなかで、西尾さんが指摘していたことに近いことを咀嚼していた。

自分の足場がしっかりしてるな、自分の主体を握ってるなと思える人って、むしろ「主体なんていない」って思ってる感じがするんだよね。自分探しとかしに行かないで、自分なんてあるっちゃあるし、ないっちゃない、って思ってやるべきことをやってる。(p51)

この自分探しというのは、「例えば「自分探し」という言葉があるけど、自分はここにあるのに探しに行っちゃう…っていうのは、自分とか存在ってものを観念的なものだと思い込んじゃってるんだろうなって思うのね」という事前の会話が前提になっている。

この会話の中で福岡伸一さんの『動的平衡』という書籍の話が出てきていて、今それを読んでいる。人間は新陳代謝するから、○○日経つとその人を構成するものは全く全て入れ替わってしまうんです、という話。
「個」というのはそこまで確かなものではないのだよ、ということが大切なのだと思う。

全身を機械に置き換えたサイボーグが、機械の体に宿る自分自身は果たして自分なのかとアイデンティティに悩むのと同じように、私たちだって曖昧なものなのだ。

肉体だけではなくて、思考もそうだ。自分固有の考え方だと思っていたものが、実は全て生きていくうちに自分に入ってきたあらゆる言説の物事の集積だった、というやつ。オリジナルな考え、というのもまた幻想で、自分と他人の境界は曖昧だ。

でも曖昧と言いつつ、他人とわたしは同一のものでないのは確かで、そこで重要になるのがとるに足りなさなのだ。
枝葉末節を愛する、という話をnoteに書いたことがあって、そこに自分で書いていたことを引っ張ってきた。

じゃあ、何が人をその人たらしめるのか。それを考えた時、中心に据えられるものなどないな、と思うのだ。一言では説明できない。
人を表すのに必要なのは、どうしようもないほどのすべての情報で、「ある一つのわかりやすい形にまとめる」なんていうのは幻想でしかない。枝葉末節こそが本質なのだ。

枝葉末節をいらないものとして切り落とすことは、主語をでかくすることだ。お陰で集団に意味づけをして物事を語ることができるようになるし、大きな次元で物事を扱えるようになってすごく便利だ(言葉が有象無象の世界を切り分けて物事を考えやすくしてくれるみたいな)。
でも、そのでかい主語を広げに広げて、その中に一粒一粒人間が入っている(リヴァイアサンのイメージ!)のを徐々に忘れていくと、全体主義みたいなことになる。全員が一つの目標に向かって、足並みを揃える世界。

物語の良さは、そのとるに足らないものにフォーカスしながらものを語れる、表現できるということだと思う。何かを伝えようとするときに、伝えやすくするために不揃いな部分を切り落として、均一にして、まとめることでわかりやすさを必要とすることもあるが、そういう手段を使わずとも語れるということこそが良い。

『いだてん』という物語は、○○を成し遂げた人を主人公に掲げて大きな物語を展開させる大河ドラマという舞台で、○○を成し遂げられなかった、を描き、まとめ上げられないあらゆることを拾い上げたのだと思う。
オリンピックの出場権を得られなかった選手が、生まれる日を特別視されて、聖火ランナーの最終ランナーとして抜擢されたときに、何者でもないのに…と吐露するシーンは、人を○○を成し遂げた人という枠からはみ出させるいだてんらしいシーンだと思うのだ。

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