枝葉末節を愛する

ライターとしてコーヒーの味や喫茶店の雰囲気について書くよりも、コーヒーを出すおじさんの手が震えていることを書きたいから小説家になった。というのは、西加奈子が作家になった理由だ。これを聞いてこの人のこと大好きだ、と思った。

大事なところだけをまとめようとした時に、こぼれ落ちる枝葉末節を愛でずにはいられない。私もおじさんの手が震えていることを、愛おしいと思う。

唐突だが、私はSFが好きだ。サイボーグが出てくるとか、人類を一つの集合体にしてしまおうとするとか(人類補完計画)、そういうSFが特に好きだ。
これはたぶん、私が枝葉末節を愛することと少しばかり関係している。

前にあげたようなSFは乱暴に言ってしまえば、身体と精神が切り離されたとしたら、というSFだ。そして、身体という箱がなくなった時、個人の境界線が溶けてしまうのではないか、というアイデンティティの話にも繋がっていく。

(身体と精神が切り離されたとしたら、という話は『人工知能のための哲学塾』とかを読むと全然ありえない議論なのだけれど、それは置いておく)

例えば、サイボーグならば『攻殻機動隊』の草薙素子。身体のあらゆる部分が機械に置き換えられてそれらの部品が入れ替え可能になった時、私とは何なのか、という問いがある。
そして、彼女は他者との融合を選択する。

また、人類を一つの集合体に、という思想はしばしばSFで見られる。個人というものなくすことで、争いが消え苦しみから解放されると考えるのだ。しかし物語は大体、集合体になることを避け、個人が個人として生きる未来を選ぶ(ある意味素子とは逆)。

私も個人として生きる方を選択するだろうと思いながら、それらの作品を見ている。人類が一つになったユートピアは、ディストピアだからだ。一人一人が違うことが重要だと思っている。
そういう風に意識の枠を問う作品を見ながらアイデンティティについて思いを馳せている。

じゃあ、何が人をその人たらしめるのか。それを考えた時、中心に据えられるものなどないな、と思うのだ。一言では説明できない。

就活ではよく「あなたの一番の強みを教えてください」という言葉を耳にする。それに沿った自己表現が求められる。でも、問われながら「そんなに簡単に説明はできない」という思いを抱く。私の一番の強みだけが私ではないと、どうしても思う。

人を表すのに必要なのは、どうしようもないほどのすべての情報で、「ある一つのわかりやすい形にまとめる」なんていうのは幻想でしかない。枝葉末節こそが本質なのだ。

だから、ある喫茶店のことを知るためには、コーヒーをサーブするおじさんの手が震えていることまで知らないといけない。
ぱらぱらに散らばったその人の口癖や、仕草や、表情や、思想や、嗜好などの、あらゆるものひっくるめ、その要素の集まりから立ち上がるのがその人自身なのだ。

#エッセイ #SF

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