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水尾の里―ゆず香る清和天皇終焉の地 京都市右京区

 本noteは、令和4年(2021)12月において、京都府京都市は右京区水尾に所在する清和天皇水尾山陵とその周辺を訪れた事実を記録したものである。清和天皇は『皇統譜』に基づく第56代天皇である。従来、同天皇といえば「清和源氏の祖」として完結されてきた感があるが、その晩年には京の深山幽谷にある水尾を愛し、その地を自らの「終焉の地」として定めた知られざる姿があった。水尾と清和天皇との関係やいかに―。

 今回も、地域と皇室との関わり方について探っていきたい。

はじめに―水尾人のやさしさにあう

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 大堰川(おおいがわ)

 目前には、山陰本線の鉄の道が続いている。その名の通り、この先をゆけば、鳥取や島根といった山陰地方に達するのであろう。

 ところが、今回私が降りたところは、山陰は愚か、依然として京都府を脱していない場所である。そこには、いわゆる洛中といった京都市の中心部ではみることのできない景色があった。目下には、山間より湧いたエメラルドグリーンと形容すべき水が、轟々と音を立てながら流れている。それを私は、地上20メートル以上はあろう、駅であり橋でもあるここ、JR保津峡駅からみつめていた。

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JR保津峡(ほづきょう)駅

 駅に降り立った乗客は、私を含めて二組に過ぎなかった。夏にもなれば、その轟々と流れる水も心地よく感じたのであろうが、いささか冬である。それも一月以降のいわゆる新春ではなく、師走の何もない季節だ。観光客がわずかなのは致し方あるまい。

 ところでこの頃に京都という街は、一年を平均して最もおとなしい雰囲気に包まれるのではなかろうか。それはここ、保津峡においても同じことであった。

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大堰川

 私は、清和天皇終焉の地・水尾に向かっている。その道程は先述したように、嵯峨嵐山駅から山陰本線をもって最寄りの保津峡駅に達する。が、水尾という場所はいかんせん現代的な交通の便には弱く、この峡谷の駅よりさらに山を越えていく必要がある。徒歩で行けないことはないが、地元の自治会バスがあるので、それを利用させてもらうに越したことはない。運賃は片道大人250円である。

 さて、私もそのような手順を踏んで水尾に立ち入らんと思ったが、なんと当日に大寝坊をかましてしまい、大幅にホテルを出発する時間が遅れてしまった。それに加えて「腹が・・・減った・・・」などという、舐め腐った欲求のまま某牛丼チェーン店へ吸い込まれるように入ってしまったがため、保津峡駅に着いたのはまもなく日が頭上に登らんとした時であった。

 自治会バスの一日の本数など、説明を要するまでもない。次のバスを待っていれば日が暮れてしまうと思い、片道一時間に達する水尾に至るまでの道のりを歩こうと、やむなく決心した…はずであった。

 無人の小さな改札を出ると、一台のハイエースが停まっていた。一瞬、発車していない自治会バスかと思ったが、どうやら現地の山荘が個人で所有する車両であるらしい。まさにそのとき、60代から80代程度と見られる老人らがゆっくりと車内に乗り込んでいた場面であった。

 その様子をなんとなく眺めていると、車を運転してきたとみられる、50代程度の一人の女性が近づいてきた。

女性「どこまで行くの?」
私「えぇ、ちょっと水尾まで…」
女性「どこか予約したお店とかある?」
私「えぇ、とくになくて、清和天皇陵に行こうと…」

 女性は、私が水尾で一切の店を予約していないという発言に大変驚いた様子であった。すると「ちょうどいいから乗って!後ろあいてるから!」といい、私を後部座席に案内した。それでも、他に予約された客の存在や、徒歩で行けないこともない距離なので問題ないと伝えたが、それでも女性は快く私を迎え入れてくれた。青天の霹靂というべき事態であった。

 道中、女性やその客との会話が弾んだ。とある80代程度の男性に「兄ちゃん、どこに行くん?」と聞かれたため、私が清和天皇陵に行く旨を伝えると「えぇ?昭和天皇?」と聞かれ、その後このやりとりが2回程度行われた(と思う)。それでも男性は、孫が早稲田大学(!)に進学した話や、水尾には柚子風呂に浸かりに来たことを、楽しそうに話してくれた。突如として現れた怪しい男に優しく接してくれたこの客にも、感謝せねばなるまい。

 ともかく、私の水尾への道程は、このような水尾人の懐の広さと、私と同様に水尾人にとっては客であり「外人」でもある人々らのやさしさに包まれながら、慌しくもはじまったのである。

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 水尾に近づくに従い、うっすらと雪化粧をしていく山の様子が伺えた。保津峡駅では未だ秋のごとく高い空や、やんわりと色づいた山の景観があったものの、標高が上がっていくにつれて世界は一変していった。

 完全に雪景色が車窓を占め始めた頃、車は先ほどまで走っていた道より開けた土地に進入した。眼下には雪を被った低木が段々畑に沿って並んでいる。間違いない、ここが水尾である。車は集落のなかでも中腹とみられる場所に整備された道をゆっくりと進み、やがて一軒の趣深い木造住宅の前で停車した。

「着きましたよー!」という女性の快活な声が挙がる。平に頭を下げてお礼をいったのち、降車して清和天皇陵に向かおうとしたが、そこに再び女性から声がかかった。「なんもないところだけど、もしよかったら帰りにうちに寄ってよ、ご飯と漬物くらいしかないけど」女性は予約客らの案内をしながら、忙しそうに私にそう声をかけた。ただでさえ、彼女の経営する山荘を予約していないにも関わらず、車に乗せてもらった身である。いささか昼食まで与るのは厚かましいと感じたが、女性が「お金はいらんよ!お金払うっていうなら来ちゃダメ!」と言うくらいであったので、帰りに寄り道させてもらうことを念頭におきながら、ひとまずはその場をあとにした。

 この時点で既に、私のなかでは申し訳ないという気持ちよりも先行して、おもしろい方だなという感を強く抱いたのであるが、その後もこの女性には、むろん良い意味において、驚かされることばかりであった。

 なにはともあれ、今回の旅の目的地である清和天皇陵に向わねば。ここまでに関わった全ての人々に対する感謝の気持ちを携えて、女性が「あそこが清和天皇さんの山やね」と嬉々として指差した、その山を目指すことにしよう。

水尾―その立地と歴史

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一面銀世界の水尾

 私は、その地へ訪れる前に、水尾を鳥瞰すべく少々の高台となっている地点へ向かった。なるほど送迎車の中より望んだ景色にも圧巻なものがあったが、それよりさらに標高の高い場所で里一帯を見渡せば、里の傾斜に沿って植えられた柚子の樹木や甍を並べた家々が雪化粧をしてよく映えている。この日、京都市中心部は雪に見舞われることがなかったため、その場所より水尾に向かった者としては感慨深いものがあった。まさに「国境の長いトンネルを越えるとそこは雪国であった」のだ。

 さて、いささか情報量のない駄文を綴ってきてしまった感があるので、ここで概説的ではあるが、水尾について多少の解説を加えたい。

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水尾の街並み(wikipediaより)

 水尾は、京都府京都市は右京区に所在する小さな地域である。「みずお」と読む。霊山としても名高い愛宕山の西南麓に位置しており、かつてはその門前町といった賑わいを誇ったようだ。

 また山城国と丹波国とを結ぶ交通の要衝地であった水尾は、平安期には一時丹羽国の所轄となりながらその後は再び山城国に属すなど、まさに両国の架け橋的存在であった。「国境の長いトンネル」という表現も、あながち間違いではないといえよう。

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水尾と京都市中心部との位置関係(Googleマップより)

 この地は山陰本線の保津峡駅で下車し、そこからさらに山を超えた場所にあることは先述した通りであるが、その性格上によってか、かつては都人の「遊猟の地」として、貴族や天皇らに親しまれてきた。

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桓武天皇(Wikipediaより)

 例えば、天智天皇の孫として即位した光仁天皇は、現在の奈良県より水尾に行幸して狩を楽しんだとされ(『続日本紀』宝亀三年十二月二十五日条)、さらにその息子にあたる桓武天皇も延暦四年に水尾を訪問して猟に遊んだ(同 延暦四年九月四日)。また、狩りに興ずる場所の一方で、平安貴族らは水尾を「隠遁の地」とし、移り住む者も多くあった。京の喧騒とはかけ離れた閑静な雰囲気が好まれたのであろう。

 そのようななかで、水尾はとある「大物」を迎えることになった。確かにその当時から京勤めのお偉いさんらが水尾を訪れ、ある者は移住し、またある者は休暇に浴していたが、この「大物」を迎えるにあたっては当時の里人らもいささか緊張が走ったに違いない。それは先のミカド、のちに清和天皇と追される当時の上皇に他ならなかったからである。

水尾と清和天皇―天皇が望んだ終焉の地

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清和天皇水尾山陵・参道

 細い道である。小さな看板に「清和天皇水尾山陵」と記されていたが、それさえも見失いそうなほどこじんまりとした道であった。誰かのお宅の畑のなかを進んでいるように感じて少々落ち着かない。

 しかし、そのぶんというべきか、柚子に雪が積もった様子や足元を流れる小川の音までもが身近にある。この場所は、人と自然とが密接な関係にあった。

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清和天皇水尾山陵・参道

 私は今、清和天皇が眠るとされる清和天皇水尾山陵へ向かっている。上記のような景色が過ぎると、首をかなり上に持ち上げる必要があるほど高くまで葛折りとなった道が、その全体のわずか一部を晒した。「これを登るのか…」と思いながらも、すぐ近くに迫っているその地を前にして心躍る気持ちは抑えられそうもない。意を決し、私は歩を進み始めた。

 水尾に加えて、清和天皇その人へも理解を深めておく必要があるだろう。道をまだ続きそうな気配もするので、ここで清和天皇の生涯についてみていきたい。清和天皇は、いったいどういった天皇であったのだろうか。

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清和天皇(Wikipediaより)

 清和天皇は、父・文徳天皇の皇子として嘉祥3年(850)3月25日に誕生した。その麗しき皇子につけられた諱は「惟仁(これひと)」。皇室は一部天皇を除きそのほとんどが諱に「仁」を通字として用いており、それは当今天皇「徳仁(なるひと)」に至るまで続いているが、その初例はまさに清和天皇こと「惟仁」に求められる。

 「仁」を通字としたのは、儒教においてもっとも重視される「仁」を意識したものであった。では、清和天皇はその「仁」に見合った治世を送ったのであろうか。結論からいえば、「仁」たる天皇として記録されたことは事実といえよう。それには天皇と常にともにあった、とある氏族の存在の影響が大きかった。

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藤原良房(Wikipediaより)

 清和天皇の父は文徳天皇であることは先に述べた。では、母は一体誰であったのか。ここで、ピンとくる方もいるかもしれない。そう、母は藤原氏、それも藤原四子のうちもっとも栄華を築くことになった北家出身の藤原冬嗣が子、藤原良房の娘・明子であった。

 良房は皇族以外で摂政に上り詰めた初の人物である。のちに藤原道長やその子の頼通によって摂関政治がおこなわれるが、その栄華のための基盤は良房によって形成されたといえよう。そして、清和天皇はその藤原氏の繁栄に利用されたともいえる。それは、同天皇が史上初の「幼帝」として即位した経緯にも頷けるものがある。

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惟喬親王(Wikipediaより)

 惟仁親王(清和天皇)が立太子した頃は、いまだ親王生後8カ月という状況であった。親王には惟喬親王等の兄が数人存在したが、彼らをも押し抜けて惟仁親王は、時期皇位継承者としてその名を宮中に轟かせたのである。これには、外祖父たる良房の企図によるものとみて間違いないとされている。良房は、甥である文徳天皇に加えて外孫の惟仁親王までもが自身の意向により立太子したのを受けて、以下のような歌を詠んでいるが、有頂天に舞った良房の姿を想像し得るものである。

年ふれば齢は老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし―藤原良房

 良房にとって、惟仁親王はまさに九重に咲く「花」であったのだ。それも、自身が手塩にかけて水をやり、肥料を撒いて育ったかけがいのない「花」であった。

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京都御所

 そして、その「花」はついに満開となった。臣下としては異例といえる、生前での太政大臣拝命を経て、良房は文徳天皇の崩御後に惟仁親王を践祚させることに成功したのである。ところが、数多の反対を押し除けて咲かせた「花」は、か弱い「花」であった。ここに、史上初となる幼帝が、史上初となる臣下の摂政を迎えて誕生した。

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唐の太宗・李世民(Wikipediaより)

 清和天皇は9歳にして列聖相受けて継承されてきた皇位に登った。その治世は改元をもって始まったが、そこで選ばれた元号は「貞観」であった。

 「貞観」と聞いて、隣国中国を想起するようなら話ははやい。「貞観」は、唐の太宗・李世民の治世中に採用された元号であった。この頃、というよりも「平成」に至るまでそうであったのであるが、我が国における元号は基本的に中国歴朝において使用された元号、もしくは中国の漢籍から採用される場合がほとんどであった。「令和」が初めて日本の『万葉集』から採用されたことに湧いた列島であったが、本来は漢籍から選ぶものなのである。当時もそれに倣って「貞観」が選ばれたが、この背景については唐における「貞観」がどのような時代であったのかを理解する必要がある。

 太宗・李世民が治めた貞観の時代は、中国史上でも類をみない聖代であった。君主と臣下とがともに豊楽し、国を安康に導いた「貞観」が、我が国においても希望され、採用されたといえよう。ではそれを積極的に推進したのは誰か。それはむろん、その「花」を聖代のなかに咲き誇らせたいと考えた、清和天皇の外祖父にして摂政・太政大臣たる藤原良房本人に他ならない。

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陽成天皇(Wikipediaより)

 清和天皇は9歳で践祚し、27歳で皇子の貞明親王(陽成天皇)に譲位した。この18年間は、伴善男の乱といった災難にも見舞われたが、『貞観格式』や『続日本後紀』の編纂にも着手できた。その治世は外祖父たる良房とその一族とともにあったが、清和天皇にとって決して辛いことばかりではなかったかもしれない。

 しかし、それに何かしら思うところはあったのだろう、天皇は皇子に譲位することを決心したのである。

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清和天皇水尾山陵・高札

今、私はようやく参道を登り切ろうとしている。かつて箱根八里の山越えを自転車で乗り越えた時よりは甘い道程であったが、雪により凍結した坂道を歩くのには神経を使った。そのぶん、どっしりと疲労が溜まった感がある。

 とはいっても、葛折りを何回も曲がって行くたびに広がる眼下の景色は雄大であった。山杉に積もった雪は時折風を受けてさらさらと落ち、それが日に照らされる様子がなんとも美しい。

 ところが、山の天気は変わりやすい。先ほどの穏やかな景色はどこへやら、清和天皇の陵前についた頃には再び吹雪が発生し、視界は容赦なく遮断された。しかしまた、これも美しいといって限りないのであるから、京都はどこにいっても絵になる街である。

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 清和天皇水尾山陵は、木製の玉垣で周囲を囲まれた形式を有している。正面にはこれまた雄壮な門が備えられており、その屋根にはやはり白い雪が積もっていた。内部には方形に整えられた石垣があったが、宮内庁によれば陵形は【円形】ということである。多く皇室の陵墓には幕末期に典型化された石鳥居がみられるが、清和天皇陵では玉垣の内部にその存在を確認できた。

 里を見下ろすことなく、吹雪を浴びながら山体のほうを向いてたたずむその姿からは、清和天皇が譲位後において水尾はむろん、諸国を歩き苦行に専念したという姿を思い起こすことができる。

 次に、清和天皇の譲位とその晩年についてみていきたい。いよいよ、清和天皇が水尾を「終焉の地」として選ぶ場面である。

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 貞観18年(876)11月27日、この頃は依然として位にあった清和天皇は、藤原良房邸より一部を献上されて成った清和院に幸した。この清和院こそ、「清和」天皇たる所以となった場所である。天皇はその地を譲位後に居住する後院として定め、晩年を過ごす予定であった。

 そして、天皇はいよいよ譲位を決行した。その理由を述べた詔書では、災害の頻発や自身の病弱な身体が理由に挙げられた。一方で、そこには、天皇がのちに仏教へ深く帰依する伏線ともいうべき事項が多数盛り込まれていた。それは譲位した清和天皇自らによる諸国の諸寺巡礼を通じて実践されていくこととなった。

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京都を流れる鴨川

 元慶3年(879)5月4日、清和上皇は清和院より鴨川の東にあった粟田院に移住した。そしてその数日後の夜、上皇は出家を果たした。ときに上皇30歳のおりである。法号は「素真」。菩薩戒はかの慈覚大師・円仁によるものであったと『慈覚大師伝』には伝えられている。出家の理由には、自身の治世中における出来事や直前に死去した太皇太后正子内親王の死去の影響など、多様に推測されているが、いずれにしろ上皇が何か思い決意をもって出家に望んだのは間違いないであろう。

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東大寺

 そして、最終的には水尾山寺にたどりつく、清和上皇自らによる諸寺巡礼の旅が始まった。粟田院をあとにした上皇は第一に大和国へと向かった。その道程では牛車を利用したが、これを聞いた陽成天皇は父の道行を案じ、何人かの兵士を遣わして上皇を守らせたという。しかしこの数人は上皇により帰らされる始末となり、上皇に長年にわたって支えてきた者たちのみがわずかに扈従した。上皇が都を脱して諸国を巡幸するという事態の重さが伺えよう。

 何はともあれ、こうして清和上皇は山城国貞観寺、大和国東大寺・香山寺・神野寺・比蘇寺・竜門寺・大滝寺、摂津国勝尾山・山城国海印寺等をめぐりながら、遂に丹羽国は水尾山寺に御幸した。元慶3年10月の出発よりすでに歳時は6カ月を経ていた。

 ちなみに、上皇が巡礼したと伝わる寺院の特徴として、これらの一部が山中に営まれていたという点がある。これは上皇が山林修行に勤しむため意図的に山間部に位置する寺院を選択したためであった。とくに、上皇の山林修行は、唐において流行した五台山巡礼に擬えており、元号「貞観」の採用に加えて、当時の唐からの影響を示す点で興味深いといえる。

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水尾のゆず

 唐風の諸寺巡礼を実践していくなかで水尾を気に入った上皇は、この地を自身の「終焉の地」と定めた。これは清和上皇の勅により水尾山寺に伊勢・尾張両国から租税が寄付されたことからも、非常に上皇の覚えがめでたかったことが理解できる。諸寺巡礼を終えた清和上皇は水尾に御したが、やがてこの地に仏堂を造営する計画が持ち上がり、そのため一時嵯峨の棲霞院に移り住んだ。上皇はいよいよ水尾を本格的に「終焉の地」として設計し始めたのである。

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 満を持して始まった自身の「終焉の地」造りであったが、清和上皇に病が襲った。元来より、上皇は病弱な身体であったとされている。このときは棲霞院から自身もかつては居住した粟田の円覚寺(旧粟田院)に再び移住した。つまり、発病の際に上皇は水尾にいなかったのである。なんとしてでも、水尾に「還幸」したい上皇。そう、このときすでに水尾は、上皇にとっての「還幸」すべき場所となっていたはずである。東大寺や延暦寺といった大寺院の僧らも、玉体回復を祈願するために大般若経を転読した。また香山寺や神野寺といったかつて諸寺巡礼の際に世話になった寺院らの僧も、朝廷よりの使者を迎えて必死に上皇の回復を祈っていた。

 ところが、その甲斐なく、元慶4年(881)12月4日午前3時30分頃において、清和上皇は崩御した。場所は水尾ではなく、粟田の円覚寺であった。ときに上皇、宝算31であった。

「終焉の地」として定めた水尾においてこそ、最期を迎えることができなかった清和天皇だが、粟田で火葬された天皇の遺骨はやはりここ、水尾山陵に眠っているとされている。荼毘後に臣下らによって運ばれてきたのだという。『日本三代実録』(元慶4年12月4日条)によれば、陵は遺詔により質素倹約を旨とし、山のごとく土を盛ることは停止された。

 臨終に際して水尾にいなかったのでは事実として終焉の地とはいえないのではないか。そういった疑問もあるだろう。しかし、それは水尾においてその後も続けられた「清和天皇信仰」が、水尾がかの天皇の「終焉の地」として定められ「御陵」をも置かれた事実を十分に説明してくれる。

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清和天皇社

 私は、水尾山陵をあとにしてその対方向の山の中腹に鎮座する清和天皇社に向かった。ここはその名の通り、清和天皇を祀る神社である。当社に掲げられた社伝によれば、粟田は円覚寺において崩御した清和上皇を哀れ悲しんだかつての里人らにより、清和天皇を主祭神とする清和天皇社が建てられたという。

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 また社伝は、清和天皇の生母たる「染殿皇后」こと藤原明子がとくに崇拝したという四所大神も合祀し、以後数千年にわたり里の氏神として人々の信仰を集めてきたと伝えている。現在においても、毎年5月3日には清和天皇社例大祭が行われており、その千数年の伝統と信仰は令和の世となってもなお、里人らにより紡がれているのである。

おわりに―水尾人のやさしさ、再び

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いただいた柚子湯

 「なんもないところだけど、もしよかったら帰りに寄ってよ」という、女性の言葉を思い出した。こうして水尾を愛した清和天皇とそれに厚い信仰を寄せた水尾人の足跡とをめぐってきた今では、この言葉もはじめとは異なる深い感慨を抱いてしまう。インターホンを押すと、「はーい!」という元気な声が響いた。お言葉に甘えて参上した旨を伝えると「部屋あっためといたから!どうぞ入って入って!」と言われるがまま失礼した。

 そのあとはまさに至れり尽せりであった。ご飯はまず一般家庭ではみられないようなサイズの炊飯器が部屋にセットされて「何杯でも食べて」という言葉を授かり、さらには食後に水尾の名物である柚子を使用した柚子湯をいただいた。おまけに茶菓子も付けられてしまったので思わず笑ってしまうと、おそらくはこの山荘で働かれているもう一人の女性から「おもしろい人でしょ」と声をかけられた。確かにおもしろい人であったし、それ以上にやさしい方であったのはこれ以上いうまでもない。

 その帰りに手作りの柚子ジャムを購入したが、これは断じて「お礼」として持ち帰ったのではなく、純粋に欲しかったためであると、ここに強調しておきたい。それは私の祖母へのお土産とした。

 女性らに見送られながら、私はその地をまた慌ただしくあとにした。女性から自治会バスの発車時刻が迫っていると告げられたからである。はじまりはホテルで寝坊をかまし、おわりは時刻ギリギリとなってバス停に向かうという有様で、どうも余裕を持てない旅であった。だが、水尾において清和天皇に向き合った時間、そして里人らのやさしさに包まれながら過ごした時間は、贅沢なものであった。

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後水尾天皇(Wikipediaより)

 ところで「水尾帝」とは、清和天皇の別称である。後世、清和天皇は水尾を深く愛したことから、その地を冠した別称「水尾帝」と呼称される場合が多かった。江戸時代の後水尾天皇も、この「水尾帝」に「後」の字を付したもの(加後号)に他ならない。これは多分に意図的である。江戸時代に至ってもなお、水尾とそこを愛した清和天皇が強く意識されていた事実を伺うことができよう。遠い平安の朝を、江戸時代の人々はどのように想像していたのであろうか。

 清和天皇の時代は、摂関政治の始まりと軌を一にしている。初めての幼帝、「仁」の通字の初例、理想化されたその治世……。こうして俯瞰すると、確かに摂関家によって操作された部分も少なくはないだろうと感じる。その歴史的追究を避けるべきではないが、今後はより地域史に密着したうえで、その時代性を明らかにしていくべきなのかもしれない。

 そうであるならば、第一に水尾と清和天皇との関係についてさらなる研究が必要といえよう。むろん、それ以前と以後における水尾の実像も明らかにせねばなるまい。それに向けた一駄文として本noteは、「結果的に」水尾の住民との交流を経たフィールドワークを報告するものとして、ここに存在している。


参考文献・辞典・ウェブサイト

神谷正昌『清和天皇』(吉川弘文館、2020年)
京都市編『史料 京都の歴史』(平凡社、1979年)

角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典』(角川学芸出版、2009年)

京都市右京区「水尾」
水尾自治会・水尾を愛する会


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