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CAになる為に少女(左)が決意した事 ~日本の教育に落胆した~

スチュワーデス。そう呼んでいた時代、この単語さえも上手く言えなかった私は、自分が外国で働くには、とてつもない努力が必要とだけ覚悟してた。だって、お気に入りのターミネーター2を字幕無しで見るというのは、別次元だったからだ。

元々スポーツが大好きな私は、中高陸上に夢中、走る事に全てを注いでいた。計画は、勉強する時期が来たら英語に本気になり、CAになる為のミッションを開始すると決めていた。

勉強方法はこちら★

私のように一般家庭でも、英会話にお金をかけなくなって喋れるようになるんです。

現在でも、滞在先では必ずジムに行く。我ながら決して頭脳派な訳ではないが、努力をする事にかけては天才だと思った私は、高校の時点で独学で日本にいる外国人の方と話すレベル、日用英会話  スーパー日本人アクセント レベルまでは持ってきていた。

日本の大学に入学し、ある事に気付いた。

日本の四年生大学/日本で、海外の方を相手に対等に話すまでの英語を身につける事は私には不可能だ。

日本は英語の読み書きを重点的に勉強する。基本的な英文法を身につける事は、アカデミックな分野では必須だし、確実に強みになる。しかし、英文を和訳しなさい。( )に当てはます単語を書きなさい。このような問題の繰り返しは、和訳のニュアンスが違ければ採点では△になるし、実際に少しのニュアンスが違くても会話は成立するし、その細かい違いに囚われて時間を食うよりも、

相手とCommunication を進める事が客商売をする上で大切だ。


大学は英文科だったため、英語に触れる機会は多いものの、話す機会はとても少なかった。外部の英会話が、校舎の一部で有料生の英会話スクールを開いており、一般の英会話よりはとても安かったので通ったりもした。英語を流暢に話す友達とは英語で話した。大学自体は好きだった。素晴らしい先生にも出会い、勉強以外のことを沢山学ばせて頂いた。しかし、今やらないといけない事は分かっていた。

大学一年の冬、初めて一人で海外に旅行することを決めた。オーストラリアに、日本が大好きなオージーの友人に招待されたからだ。なぜ私がその子を知っているのか、経緯はのちに話すとして、このオーストラリア1週間ら滞在が私に追い討ちをかけた。

日本人が日本で使えていた英語は、全く持って使い物にならない。


もし今あなたが、帰国子女ではない日本人を相手に英会話の練習をクラスでしているのなら、それは、自分一人で勉強しているのとほぼ同じだ。スピード、アクセント、言い回し、態度。全てにおいて英語は日本語とは違う。

例えば、ヨーロッパやアフリカの人が英語を話しても、彼らの第一言語はあまり英語に悪影響は親は増さない。国独特のアクセントは別にして、英語そのものを発音する事に支障はない。私の南アフリカ出身の親友は、第一言語がafrikaanだが完璧な英語を話す。日本と南アフリカにおいての英語の必要性を省いても、そもそも舌の使い方が違う。

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(南アフリカ出身の親友と)

話は戻り、人生初の一人海外旅行で私は1週間オーストラリアのパースへ行った。友人は私が沢山英語を学べるよう、沢山話す機会を作ってくれた。彼女だけでなく、彼女の友人や家族が分かりにくい私の日本人英語を聞き取ろうとしてくれた。自分がとても恥ずかしくなった。このままではいけないと思い、決意した。

オーストラリアで勉強する。


周りの人に恵まれた私は、沢山の支えの元でIELTS(いわばTOEICをもっと実践的にしたもの)を受験し、入学許可スコアをクリアした。父親は大反対だったが、試験が受かったら留学という約束をしてくれた為、日本の大学に休学届けを出し、オーストラリアでdiplomaのhotel management を勉強する事を決意した。

私の家庭は、英語は映画を見る時に字幕版で聞くだけの、ごく普通の一般家庭だった。両親の驚きと心配を理解しつつ思ったことは、

私は家庭に嵐を起こした。笑


留学の種類は様々だか、英語を短時間で身につけたい私には、これが最良であり最高に大変だった。詳しくは後ほどの記事で★ 今でも思う事は

本当に語学留学をしなくて良かった。


留学前はバイトと勉強に明け暮れ、周りの友達とも馬鹿騒ぎをする事も少なくなり、ひたすら勉強した。日本の大学に不快感を覚えていた私にとって、努力は大変でも全く苦痛ではなかった。詳しくは後ほどの記事で★

時間は飛び

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(Gold coast beach, Australia) 

無事に留学が決定しBrisbane, Australia の某大学でDiplomaを学んだ結果、家族にとっても過激な期間ではあったが、自分の世界観が変わる、忘れもしない濃い約一年半になった。世界中に、Brisbane にも友達がたくさん出来た。英語力は確実に上がり、帰国後は

就活とそれに伴う資金工面が私の目標になった。


何が裕福な家庭なのかは分からない。しかし、沢山のサポートを家族から受けた私にとっては、時間が許す限り資金を作りる。という事が夢を叶え途中の私が出来る小さな事だった。


私の場合、日本の大学復帰までに5ヶ月のギャップがあった為、フリーターとして羽田空港の飲食店で 6.00-16.00まで働き通した。ベンチャーのインターンシップにも参加して、英語を生かしつつ海外にまつわる記事を書かせて頂きいた。初フリーターの時間はつまらなかったが、素敵な出会いもあり、沢山の勉強になった。

皆さんもご存知の通り、就活には沢山のお金がかかる。特に私は、CA受験を日本でする。という競争率の高い環境にいた為、都内にいくつかあるCAになる為の専門学校に大学と並行して通う事を決意した。

これは本当に高かった。 60万。


高校を卒業してからは、年齢層も高い落ち着いた居酒屋で2年間働かせて頂いた。英語を使えるバイトを探した事もあったが、そんな物は留学する前の低レベルの私には何もプラスにならないし、将来CAになる為には接客業を学ぶ事は必須だった。ギャルだった私を採用して下さり、全力で怒りつつも全てを教えてくれた店長にはとても感謝しているし、今も話す。

しかし帰国後に大学に復帰し、就活を成功しつつお金を稼がなくてはならない私には、地元の居酒屋でのバイトは効率が悪かった。短時間で、楽に金を稼ぐ。これを優先した時、やれる事はガールズバーやキャバクラだった。店以外での商売なしで、あまり着飾らなくていいガールズバーで働き、週一の出勤で12万を稼げるまで頑張った。沢山学んだ。言い方は悪いが、これは学べば簡単に稼げた。生々しい現実を含めた詳しい記事は後ほど★親には秘密だったが、母は気づいていた。

ある程度お金も溜まり、就活のみに専念する事にした私はバイトを辞め、専門学校に入学した。


結果私は通い始めてから、半年弱で外資の某エアラインに合格したのだから、後悔は全くしておらず、感謝しかない。でもその感謝は一人の先生と、一緒に夢に向かって頑張った友人のお陰だ。CAの専門学校?詳しい事は後ほどの記事で★ 

これまでの話で忘れられているだろうが、私はいわゆるギャルだった。

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緑か青またはキャラメル色のカラコンに茶髪、帰国後は赤髪になり、ピアスは合計5つ。

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(日本の親友と私、バイトの為に赤髪卒業) 

私の様な生徒は一人もいなく、偏見の目は沢山あった。さすが日本だ。80%が私の事をバカにしていただろう。同時に、元々気が強く偏見にも慣れていた私は、なんの感情もなく彼らをシカトした。帰国終わりの私は、英語が他より上手い事はもちろんであったが、それは自分が死に物狂いの努力をして培ったもの、見かけだけで判断してくる人達に苛ついた。実際、沢山努力、苦労をしてきた人たちとは、友達になった。

自分の力を常に信じ、支えてくれる人を思い、絶対に夢を叶えてやる。

元アスリート魂を捨てずに、ただ自分の前の事に猪突猛進に挑んでいたからこそ、苛立ちつつも別に気にしなかった。

合格した時に、スクールに入学するきっかけとなった親愛なる一人の先生から頂いた言葉は

“あたしは絶対あなたが合格すると思ってたけど、他の先生や事務の人は誰一人あなたが合格すると思ってなかったよ”

この言葉を聞いた時、私は最高に嬉しかった。
今までの努力が報われたと思ったし、もっと自分に自信が沸いた。

将来の夢を叶えるために努力した事、好きな事に夢中になる中で私は沢山学んだ。現在はメディアが豊富だし、身の回りに関連する職業の人がいなくても、情報は沢山入る。

今から就活を迎える方々、将来の夢がある、無い方、可能性が無いと思わずに、気になる事全てにチャレンジして欲しい。

努力に限界はない。

陸上部時代、垂れ幕に書いてあったこの言葉は本当だと思う。正しい努力をすれば、結果は自ずと現れる。

★があるトピックは、徐々に掘り下げていきます。

L U N A.  

神奈川県 横浜市出身。日本で独学で英会話を学び、県内の大学に進むが、途中休学し、オーストラリアへ一年半のDiploma留学。日本の大学に復学後日本で就活。現在、大手エアラインのキャビンアテンダントとして海外で活動中。6年目。





将来LEGOを買い占め、チャーリーとチョコレート工場を建設してやろうと思っているので、とてもとっても助かります。というのはジョークで、ブログ資金にさせて頂きます!