首都プノンペンへ

携帯電話のバイブレーションで目が覚めた。朝七時だった。旅を始めてから、音無しのアラームでも起きることができるようになった。相部屋の宿泊者に対する配慮だ。しかし結局、部屋の灯りをつける時に、隣で眠る大学院生を起こしてしまった。
「もう出るんですか」
眠たそうに起き上がりながら大学院生が言う。八時間もかかるし、できるだけ早く向こうに着いてゆっくりしたいんだと応える。身支度を済ませ部屋を出る。大学院生は、僕が準備している間もずっと起きて待っていてくれ、外まで見送りに出てきてくれた。玄関先のテラススペースでは既にスタッフの女性が仕事を始めていた。
「またどこかで会おう」
そう言って大学院生と握手を交わした。スタッフの女性にも、お世話になりましたとお礼を言ってゲストハウスを後にした。

近くにいたトゥクトゥクに乗り、バス会社の名前を伝えた。値切り倒すのはもう止めようと思った。法外に高い言い値は別として、相場程度ならそれで良いではないか。彼らも、何かのために一生懸命汗水垂らして働いているのだ。
一週間以上滞在したシェムリアップともこれでお別れかと思うと、少し寂しい気持ちになった。そんな僕の思いとは裏腹に、容赦なく全速力で街を疾走していくトゥクトゥク。その車内から、過ぎ去っていく街の景色をぼんやりと眺めながら、ここ数日の出来事を思い返していた。アンコールワットのあのガイドの男は、今日はもう獲物の観光客を捕まえているだろうか。トンレサップ湖の船頭の女の子は、また今日も、いつもと変わらない順路を、いつもと同じような観光客を乗せて進んで行くのだろうか。そんなどうでも良いことばかりが不意に頭に浮かんでは消えて行く。それは例えば、打ち寄せる波の満ち引きが浜辺の凹凸をきれいに均してしまうように、時間をかけて僕がここにいた痕跡を攫って行こうとしているのかもしれない。
オールドマーケットの近くにあるバス会社に到着した。首都プノンペンまでのチケットは、六ドルと聞いていたが、料金表に上から雑に紙が貼られ八.七五ドルと書かれてあった。値上がりしたのだろう。それでも、バスで八時間という旅程を考えれば、高いとは言えない料金だ。チケットを買って待っているとミニバンに乗れと言われる。どうやらバスが発着するのは、少し離れた別の場所らしく、バス会社から十分ほどでターミナルに到着した。大きい荷物は車内に持ち込めそうになかったので、メインのバックパックをバスのトランクに預けた。
腹が減っているが、発車時間まで時間が無く、どうしようかと考えていると、丁度、ターミナルの目の前でサンドウィッチを売っている露店があることに気がついた。急いで駆け寄り適当なものを注文したが、三組の先客がおり、中々僕のオーダーに手がつかない。バスの方を気にしながら、右手首の辺りを左手の人差し指でトントンと叩いて、 発車まで時間が無い事をアピールするも、自分のペースを崩す事なく淡々とサンドウィッチを作っていくおばさん。その手際には寸分の狂いも無い。そしてその娘か孫か、それともただの近所の子か、慌てふためいている僕を、幽霊でも見ているかのように不思議そうな面持ちで見つめる幼い女の子達が、売り場の横に座っていた。カメラを向けると恥ずかしそうに顔を背けてしまうのが何とも言えず可愛いらしい。


↑恥ずかしいのか、福田の事が嫌いなのか、目を背ける女の子達。


なんとか発車には間に合ったが、食べる時間は無く、そのままサンドウィッチを片手にバスに飛び乗った。しっかりしたそこそこ綺麗なバスで、エアコンの効き具合も申し分無い。更に定員の半数にも満たない程しか乗客がいないため、靴を脱いで横の席に脚をあげることができ、かなり快適な時間を過ごす事ができそうだ。行儀は悪いが、そんなことは言っていられない。長時間に及ぶ移動では、如何にしてリラックスし、疲れを溜めないようにするかを最優先に考えていかなければならない。旅人だから許して欲しい。そんな言い訳を自分に言い聞かせながら旅をしている節もあるかもしれない。勝手に旅に出ておいて、よくそんな事が言えるなと自分でも思っている。ただ、この快適な環境が後にトラブルを引き起こしてしまうことになるとは、この時にはまだ知る由もなかったのだが。
一時間半ないしは二時間程度おきに休憩のためにバスが停車した。一回目の休憩は車内からでなかったが、十二時半の二回目の休憩では、外に出てみることにした。大きめの食堂のようなものがあった。何種類かの店が並んでおり、その横にどこにでも自由に座って良さそうなテーブルと椅子がたくさん並べられている。フードコートのようなものなのだろう。乗客も運転手も、そこで当たり前のように昼食を取り始めた。今回の休憩はどうやら、昼食のための休憩のようだ。僕はそんなに腹が減っているわけではなかったので、中にあった売店でクラッカーを買った。
しばらくしてバスが出発した。次第に瞼が重くなり、眠り込んでは起き、まだ到着していないことがわかるとまた眠るというサイクルを何度か繰り返し、最終的には、身体を縮こまらせて二席分の空間に横になり通路に脚を飛び出させるという完璧な睡眠態勢をとっていた。


↑福田と大体同じ態勢で眠る男の子。


ふと目を覚まし、周りの席を見渡すと、自分以外の乗客が一人も居なくなっていることに気づいたが、バスは運行を続けている。状況はよくわからないが、寝過ごしてしまったということだけは間違いないだろう。僕の目的地でもあるプノンペンが終着点のはずなのにどうしてだろう。慌てて運転手のところまで行き、ここで降ろしてくれと頼む。運転手には英語は全く通用しなかったが、「えっ、なんでまだ乗っているんだ」という風なリアクションをとっていることは明らかだった。どうやら、バス停で乗客を降ろし、Uターンして戻っている途中らしい。とにかく降ろしてくれと頼むしかない。運転手は何やらどこかに電話をしているようだったが、何を言っているのかさっぱりわからない。唯一「ジャポネ」みたいな単語が混じっているような気がしたので、もしかすると、「日本人がまだ乗っていたんだが、どうしよう」などと面倒臭そうにバスターミナルに電話をしているのかもしれない。終着点に着いたら、せめて乗客が全員降りているどうかぐらい確認して引き返せよと腹が立ってきたが、悪いのは眠っていた自分だ。無闇矢鱈に怒りの矛先をこの男に向けるのは筋違いなのだろう。少しして、路肩にバスが停車した。運転手はここで降りろというような仕草を見せる。荷物を預けていたので、マイバッグと言いながらトランクの方を指差してみる。すると男は、困った顔で、ここにはないというような事を言いながら、後方を指差している。やれやれ、どうやら僕は乗ったままなのに、僕の荷物だけはバス停で下車しているらしい。バス停で荷物が一個余る時点で、何かがおかしいことに気がついてくれてもよいのではないか。再び怒りが沸々とこみ上げて来た。バス停まで戻ってくれとジェスチャーを混じえた英語でお願いするも、全く戻る気がなさそうだ。運転手は、バスから降りて、丁度近くにトゥクトゥクが停まっているのを見つけると、居眠りしていたまだ若そうな運転手を叩き起こし、何やら説明を始めた。この日本人をバス停まで連れて行ってやってくれとでも伝えているのだろう。トゥクトゥクの運転手は、わかったようなわからないような曖昧な相槌を打つ。いかにもドジで頼り甲斐が無さそうな男だ。本当に大丈夫だろうか。しかしバス停の場所など全く見当もつかない今の僕には、残念ながらこの男に身を任せてみるしかなかった。
レクチャーを終えると運転手はそそくさとバスに乗り込んで行ってしまった。心配を通り越して、もはや恐怖にも似た感情に近づきつつあった。今や、僕と僕のバックパックをつなぐ唯一の手掛かりは、何を隠そうこの頼りないトゥクトゥクドライバーただ一人の手に委ねられているのだ。なぜよりによってこいつなんだ。そんな泣き言を呟きながら、トゥクトゥクに乗り込んだ。僕の不安をよそに、トゥクトゥクはものの十分程度で街の中心部だと思われる付近に復帰した。良かった。自分の眠りがもっと深かったらと想像するとぞっとした。プノンペンは、さすがに首都ということもありそれなりに都会じみてはいたが、ごちゃごちゃして汚いという印象を受ける街だった。最も、この時には、自分の荷物のことが心配で、景色に目を配る余裕などなかったわけだが。時折、停車しては通行人に道を尋ねている運転手を見ていると、僕の旅はもうこれで終わりなのかもしれないという考えがよぎらないわけではなかったが、メインのバックパックには、衣類を中心に、最悪失っても良いものしか入っていないため、手痛い出費は伴うものの旅を即終了しなければならないという事態は避けられそうだ。
トゥクトゥクが停車した。思っていたよりこじんまりしているが、確かにバスが停まっていて、ベンチに座って待っている人の姿もあった。本当にここなのだろうか。運転手への支払いはそっちのけで、とりあえず降りて自分のバックパックを探してみるが見当たらない。だめだ。半ば諦めかけながら、辺りを歩いていたその時だった。「あった!!」思わず声をあげ走って駆け寄る。迷子になっていた自分の子供を見つけた時というのは、こういう感覚なのだろうか。僕のバックパックは何やらよくわからない大量の荷物の上に置かれていた。悪く言うなら、投げ捨てられていたという表現もできるかもしれない。どういう感情なのかは判然としないが、バス停で働いているおじさん達は、荷物を見つけて喜ぶ僕の方を見てニヤニヤしていた。もしかすると、バスを降り過ごした日本人の噂が既に広まっていたのかもしれない。


↑半ばゴミのような扱いを受ける福田のバックパック


トゥクトゥクの方に戻り、運転手にあったよと笑顔でお礼を言った。ついでに、疑って悪かったという意味も込めておいた。幾らかと尋ねると五ドルと言われ、絶対に高いだろうと思ったが、歓喜と安堵に包まれているこの状況では値切る気など一切起きなかった。きっと、そんな僕の思いを見透かしていたのだろうが、そんなことはどうでもよかった。荷物が見つかっただけで丸儲けなのだから。さあ、今晩の宿に行こう。


↑間抜けそうなトゥクトゥクドライバー。この男のことは一生忘れないだろう。


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hiroyuki fukuda

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