シェムリアップ延泊

宿のチェックアウトの日を迎えた。このままバスで首都のプノンペンまで向かっても良かったが、シェムリアップを離れるには、何となくまだやり残していることがあるように感じた。もう少し観光じみたこともしておきたいという気持ちもあった。もう何日かシェムリアップに滞在することにしたが、気分転換のために、宿は別のところに変えてみようと思った。次の宿も、今の宿から歩いて五分程度と目と鼻の先にある日本人宿にすることにした。

夕方頃、新しい宿に到着した。門構えの入口をくぐると、庭にテラスのようなスペースがあり、そこでテーブルを囲んで、宿泊客かスタッフかよくわからない人達が、ビールを飲みながら談笑していた。元気良くこんにちはと発してみる。こちらを振り返った人達の中の一人の顔に見覚えがあった。誰だったかなと思考回路をフル回転させて考えた結果、とっさに口をついて飛び出した言葉が「ラーメン屋さんの人ですか」だった。「あっ、そうです、そうです」と女性。どうやら合っているようだった。向こうも僕のことはなんとなく覚えてくれていたらしい。ラーメン屋さんとは、僕がシェムリアップに来た初日の夜に訪れたあのラーメン屋さんのことで、この人は、そこで働いていた女性だった。全く想定していなかった邂逅に、少し興奮して声のトーンが上ずってしまった。そうこうしていると、奥から、短いアフロヘアーで髭を顔じゅうに蓄えた恰幅の良い男性が現れた。直感的に、この人がオーナーなのだろうと思った。僕の頭の中のゲストハウスオーナーのイメージとの照合率が九十パーセントを超えていたからだ。支払いを済ませた後、部屋に案内してくれた。ここでは、三人部屋のドミトリーでの宿泊だったが、今晩も僕一人で貸切状態らしい。一人で使えるのは、のびのびできて悪くはなかったが、少し寂しいような気もした。「うち、生ビール〇.五ドルなんでよかったらどうぞ」と言ってオーナーが出ていった。後でもらいにいきますと応えた。


↑居眠りする猫。このゲストハウスには、計五匹の猫が住んでいるらしい。名前は忘れてしまった。


久々に歩き回ったせいで、かなり疲れていたので、ビールをもらいにいこうかいかまいか少し悩んだが、最初から結論は出ていた。こういう時の酒は、例え四十度を越える熱があったとしても、腕を骨折してグラスが持てなかったとしても飲まなければならない。結局、酒に勝るコミュニケーションツールなどないのだ。
四十から五十歳の間くらいの男性一人と女性二人が、グラスに注がれたビールを片手に話し込んでいた。オーナーにビールをくださいとお願いした。「はいよっ」と元気よく応えてくれるオーナー。元気だということはそれだけで正義だ。一席空いていたので、仲間に混ぜてもらえることになった。
どうやら、三人のうち男性は宿泊客、女性一人はスタッフで、もう一人のラーメン屋の女性は、そのどっちでもなく、ただのよく飲みに来る人だと言っていた。男性は、常連の宿泊客のようで、オーナーとも女性二人とも以前から知り合いらしかった。拠点を上海に置いており、今は仕事が暇なので東南アジア近辺を渡り歩きながら自由気ままな旅行をしているらしい。五十歳ということだったが、もう少しは若く見えた。その黒光りしそうなほど日焼けした若々しい肌がそう見せているのかもしれない。次は、ブルネイだったかボルネオだったか、どちらか忘れてしまったが、その辺に行こうと思っているらしい。どんな仕事をしているのかとても気になったが、訊くのはやめておいた。もし万が一、いかがわしい商売だと感じてしまった場合に反応に困ってしまう。男性が醸し出すミステリアスな空気感からすると、その可能性はゼロではなかったし、もし仮にその話題が暗黙のタブーだったとしたら、それに抵触してしまった新参者の僕は、為す術なく部屋に戻って一人寂しくビールを飲まなければならなかっただろう。この世界には、考え出したらきりが無い事柄というのが実に多く存在する。ラーメン屋の女性は、今年に入ってからシェムリアップに住んでいるらしい。もうこっちに来て十数年というベテランの雰囲気を醸し出していたので、少し意外だった。どうしてシェムリアップに住むことにしたのかと尋ねると、「うーん、なんででしょうね。なんか気に入っちゃったんですかね」と応えてくれたが、抽象的過ぎてそこから汲み取れる情報は何一つなかった。ここにも何か暗黙のタブーが潜んでいるのかも知れない。一時間くらいだろうか、色んな話をした。シェムリアップの話、出身地の話、恋愛観の話、歩んで来た人生の話、これからの未来の話。とても居心地の良い時間を過ごすことができた。互いに全く別々の人生を歩んで来た元々カンボジアに何のゆかりもない人達が、何の因果か、ここシェムリアップの小さなゲストハウスに集まり、何でもない話題をつまみにビールを飲んでいる。想像しただけで、鳥肌が立つほど興奮した。どう控えめに言葉を選ぼうとしても、奇跡という言葉以外では表現しきれない。こんなカンボジアの片隅の小さなゲストハウスからでも奇跡が一つ生まれているのに、一体これから僕が周ろうとしているこの広い広い世界には、どれほどの奇跡が満ち溢れているのだろう。そしてそのうちの何個が、僕に向かって手を振ってくれるのだろう。


↑このゲストハウスのアイドル的存在の子猫。名前はチビ。大きくなっても、名前はチビ。


男性と女性二人は、これから外食に出るのだと言う。何やら中国式火鍋というものを食べにいくらしく、僕も誘ってもらった。絶対に美味しそうなその響きに惹かれないわけはなかったが、宿に着く前に、その辺の食堂で適当に夜ご飯を済ませてしまっていたので泣く泣く断った。オーナーは、この後もまだチェックインがあり、留守番をするらしかったので、一緒に残ることにした。オーナーは、最近、体型を気にしているらしく、ビールはあんまり飲まないようにしていると言いながら、ビールを飲んでいた。アンコールビールはとても飲みやすかった。カンボジアのビールに限らず、東南アジアのビールは、全体的にすっきりしていて飲みやすい。余計な苦味や渋味も少なく、個人的には、飲み続けていても飽きるということがないので、気がつくとついつい飲み過ぎてしまうこともしばしばだった。昔は痩せていて凄かったんだと色んなところで言って回っているらしいオーナーは、確かによくみると目鼻立ちがくっきりしていて、要所に男前だった頃の面影を見て取ることができた。その濃い顔つきから、九州かもしかすると沖縄出身なのかと勝手に想像していたが、聞いてみると北海道だった。浅はかすぎる自分の考えに、少し悲しくなった。
オーナーと二人で話し込んでいると、しばらくして宿泊客がチェックインにやってきた。若そうな男一人だった。大学生だろうか、身長が高くすらっとした体型をしていた。男は、部屋にこもったきりその日は一度も顔を見せることはなかった。
その後もオーナーは、最近あんまり飲まないようにしているんだけど、飲めるから飲んじゃうんだよねと、よくわからない言い訳を発しながら、ウィスキーを炭酸水で割って、ハイボールを作っては飲み、作っては飲みを繰り返した。
しばらくして、火鍋組の三人が満腹のお腹を抱えて戻ってきた。感想を聞いていると僕も食べてみたくなったが、オーナーと二人で酒を飲む時間もとても魅力的な一時だったので、後悔はしなかった。それから、オーナーが、お腹が空いたので、ラーメンでも食べにいこうかなと言うので、お願いして一緒に連れて行ってもらうことにした。ゲストハウスからすぐ近くにある地元感の漂う食堂で、夜遅い時間まで営業していて、6000リエルで食べれるらしい。ラーメンと言っても、勝手にそう呼んでいるだけで、どちらかというとベトナム料理のフォーに近い食べ物で、クイティウという名前らしい。気がつくとビールを八杯も飲んでしまっていた僕には、五臓六腑に沁み渡るとても優しい味だった。これで6000リエルは確かに安いなと感心した。
胃も心も満たされた僕は、宿に帰るとすぐにベッドに寝転がった。シェムリアップに延泊することにして良かった、と思いながら目を閉じた。


↑カンボジアのしめのラーメン的存在、クイティウ。


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hiroyuki fukuda

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