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いてほしかった大人になる


2023年2月24日(金)朝の6:00になりました。

気温が下がるアイスブレイクが、この世にはたくさんあります。

どうも、高倉大希です。




子どものころ、学校の先生の「まわりの人と話し合いましょう」という指示がとても嫌いでした。


「グループの人と、相談しましょう」

「隣の席の人と、意見を交換しましょう」

「お互いに、よいところを伝え合いましょう」


決して、友だちがいなかったから嫌だったわけではありません。

「話し合わせておけばよいでしょ」という安直な考えが見え透いているところが嫌だったのです。


話し合いが終わったら、案の定、先生はこんなことを言いはじめます。

「人によって意見がちがっていて、おもしろかったですね!」


「だから何なんだよ!」と、ずっと思っていました。


中学、高校と僕が理不尽な校則に対して抗議を続けた一番の理由は、「先生を信用したかった」からです。

工藤勇一、鴻上尚史(2022)「学校ってなんだ!日本の教育はなぜ息苦しいのか」講談社


話し合いがスムーズに進まなければ、先生が近づいてきて助言を加えます。

その瞬間に、わたしたちは「先生の助言がなければ話し合えない生徒」として扱われます。

なぜか「生徒がわるい」ということになるのです。


話し合いたくもない、話し合う必要性も感じられない。

そんなテーマで「話し合え」と言われ、いざその場が先生の想像と違っていると「生徒がわるい」ということになるのです。


(鴻上さんが工藤さんの著書を読んで)服装・頭髪規定を全廃したことより、なによりも、言葉が通じる先生がいることが衝撃だったのです。

工藤勇一、鴻上尚史(2022)「学校ってなんだ!日本の教育はなぜ息苦しいのか」講談社


もちろん「まわりの人と話し合いましょう」という指示そのものがわるいわけではありません。

子どものころの自分がひねくれていただけで、もしかすると有意義な話し合いの場を用意してくださっていた先生もいらっしゃったのかもしれません。

それでもやはり、記憶の中には「話し合わせておけばよいでしょ」でつくられたであろう場が強く残っているのです。


話し合わせたいのであれば、思わず話し合いたくなるような場をつくらねばなりません。

もしくは、話し合わざるをえないような議題をぶつけてやらねばなりません。



「話し合い」は、あくまでもひとつの手段です。

本当に話し合う必要があるのかどうかを考えるところからが、先生の仕事です。

なんなら必要性を感じれば、子どもたちは勝手に話し合いをはじめます。


あのころに、いてほしかった大人になりたいなと思います。

できていない子どもをわるものにしてはなりません。





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