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人によって態度を変えてはいけないのか?


2023年5月16日(火)朝の6:00になりました。

人っていうのはいつだって見当違いなものに拍手をする。

どうも、高倉大希です。




「人によって態度を変えるな」

そう言った母は、電話に出るときに、声色が変わります。


「人によって態度を変えるな」

そう言った父は、宅急便を受け取るときに、ズボンを履きます。


「人によって態度を変えるな」

そう言った先生は、授業参観のときに、普段とは違う顔をしています。


彼が僕にしつこく干渉していた理由は、同じ直樹という名前だったからだと、事後処理をする大人達の会話で知った。先生が僕のことを、「直樹」と呼ぶのを聞いて、自分の名前を奪われると不安になったのかも知れない。

又吉直樹(2023)「月と散文」KADOKAWA


人によって態度を変えるな。

はたして、本当にそうなのでしょうか。


わたしたちは、よく「子どもは素直である」という謎の前提のもとに、子どもたちと対峙します。

たしかに素直なのかもしれませんが、なにも考えていないわけではありません。


子どもたちは、大人をよく見ています。

たとえ本心ではなかったとしても、大人の顔色をうかがって、一生懸命に言葉を紡ぎます。


人間は、誰かとの関係の中で、その人のための分人を常に生み出している。お互いにです。相手の中には、あなたのための分人が生じる。一対のセットとして、言葉や感情のやりとりをしている。個性というのは、だから、唯一普遍の核のようなものじゃないんです。

平野啓一郎(2015)『空白を満たしなさい(下)』講談社


「嘘をつくことはダメだろ」とか、そういう話ではありません。

表に出てくるものが、相手によって変わることは、当然だろうという話です


本人が意識しているかどうかは、関係ありません。

平野さんの言葉を借りるなら、他者と対峙した時点で「その人のための分人」が、自動的に生み出されているのです。


愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。つまり、前章の最後に述べた、他者を経由した自己肯定の状態である。

平野啓一郎(2012)「私とは何か」講談社


いわゆる「メディア・リテラシー」の考え方と、よく似ています。

目に見えている表現は、あくまでも氷山の一角です。


本当だとか、嘘だとか。

よいとか、わるいとか。

もはや、そういう話ではないのです。


どの辺までを正常とするという範囲を、もっと拡げなけでばいけないんじゃないかと思っているわけです。なぜなら、今の社会に生きる人の正常の範囲は、現行で考えられている正常の範囲に比べると、拡がっていると考えなくちゃいけないからなんです。

吉本隆明、糸井重里(2004)「悪人正機」新潮社


こうして書かれた文章も、必ずしも書き手の姿が反映されているとは限りません。

毎朝の更新を欠かさずに読んでいただければ、足の小指くらいは見えてくるかもしれません。






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