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虚像


記憶とは、虚像ではないのか。


私はふと、そのことに気が付いた。

幼い頃の記憶と言うものは実に曖昧で、

いくらか塗り替えられ、

変更に変更を重ねて、今の自分の中にある、

と私は思う。

「私はこういう子供であった」

と、

周りの人間に話しても段々と不安になり、

それが誠なのか

わからなくなるのです。

私以外の人間なら、

その事実を理解しているかもしれないと、

問いかけるが、

その返事も実に曖昧で、

話す人間によって

多少あらすじが変わってくるのです。

わざわざ

「それは嘘だ」

と、

囃し立てることはしません。

当たり前のことです。

それを話すのも皆同じ人間なのだから。


私自身、その経験が嫌なほどあります。


記憶力がある方か、ない方か、

といった、

単純な話ではない気さえしてきます。

都合の悪いものには蓋をして、



なかったことにする。

そんな能力が人間には備わっているのです。

だとすれば、私の過去、つまり正しい記憶は、

一体どこにあると言うのでしょうか。



これはあくまでも私の場合は、

ということになるが、

先日、

道端に落ちた鳥の雛を

私は見掛けた。

もうすでに息はなく、

数日経っているのだろう、

腐敗が進んでいた。

その雛をしばらく見つめながら、

ある日の出来事を思い出していた。

友人たちが道路のある箇所に

群れて騒いでいたのです。

騒いでいたのは周りの人間で、

当事者の男二人は、

それは静かだったと記憶しています。


私はその光景を少し離れたところから見ていました。

何が起こっているのか、見当もつきません。

男の一人がこちらにやってきました。

「何か、あったの」


私は友人に聞きました。

「鳥の雛が上から落ちてきて」


もう一人の男は、

その雛を土に埋めてあげていました。


私は、その光景をただ、

遠くから眺めていただけだったのです。

雛を拾った当事者でもなければ、

周りで騒ぎ立てる人間でもありません。

私は蚊帳の外でした。


どうしてでしょうか。

道端に落ちた雛を見つめていると、

まるで私もその時、

その中にいたような、

そんな気がしてきたのです。

そして、離れたところから、

もう一人の私がその光景を眺めている。


もちろん、振り向いても、
そこには誰もいませんが。


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