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「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(2)


第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂

2、「千金公主 降嫁」の思惑



 582年、隋の武将・長孫晟ちょうそんせい【552~609】は、文帝・楊堅ようけんに、「今は武力による突厥征伐の時ではなく、大可汗カガン沙鉢略さはつりゃく可汗と弱小の可汗らを離反させ、十数年の後、これを一挙に討つべき」と説きました(『資治通鑑』)。

まだ建国から間もない隋が、突厥対策に十数年という長期間をかけたのには、いかなる思惑があったのでしょうか。
 

 突厥における最初の和蕃わばん公主※1 は、580年に沙鉢略可汗【在位581~587年】に降嫁した千金せんきん公主【?~592年】です。

突厥との和平のためにこの降嫁を進めたのは、時の北周の第4代皇帝・宣帝せんてい(千金公主の従兄)の 外戚《がいせき》※2 で、既に簒奪さんだつ※3 を目論みつつあった楊堅でした。


北周・隋宗室系図


 

平田陽一郎氏によれば、千金公主の降嫁の狙いは、第一に北周が滅ぼした北斉の皇族を匿っていた突厥への「けん制」にありました。一方、楊堅個人の思惑としては、「降嫁を口実に宗室の五王を都に召喚して粛清」することにあったとされます。

降嫁から程なく、暗君だった宣帝が亡くなり、楊堅はさらに専権を強めていきます。これに対し、都・長安に入った宇文招うぶんしょう(千金公主の父)ら諸王は、楊堅の簒奪を危惧して、彼の暗殺を図るも失敗し、命を落としました。

また、同時期には、打倒楊堅を掲げた有力武将の反乱も相次ぎ、楊堅はそれらをことごとく鎮圧していきます。

即ち、楊堅は降嫁の成功によって、突厥をけん制して「自身の評価を上げる功績」を得た以上に、かねてより目障りだった国内の「反楊堅勢力をあぶり出して一掃」することにも成功したと言えます。

楊堅は政敵を一掃して国内を安定させてから、いよいよ突厥外交に本腰を入れていくのです。

 千金公主が突厥へ降嫁した翌年、楊堅は隋の皇帝に即位します。この時、亡き宣帝の皇后だった楊堅の実の娘でさえ、北周の宗室を滅ぼした父に憤りを示しています。千金公主の楊堅への恨みの深さは想像に難くありません。
 
 突厥では、可汗の妻は「可賀敦カガトゥン」と呼ばれ、軍略にも意見するなど、絶大な発言権を持っていました。

これ以後、千金公主は、自身の父をはじめ、一族と故国を亡き者とした楊堅を討つべく、夫・沙鉢略可汗に度々、隋への攻撃を促します。
 
沙鉢略可汗が、「わしは北周の親族であるのに、隋の文帝の自立を制することができなかった。どんな面目があって妻に顔向けできようか」(『資治通鑑』)と嘆息したことからも、千金公主の影響力の大きさが伺い知れます。
 
即ち、沙鉢略可汗は北周の宗室から千金公主を迎えたことにより、以降、「北周の仇討ち」という名分を背負うことになったのです。

 
 楊堅が、自身に強い恨みを持つと予想される千金公主を、敢えて北周と結びつきの強い突厥に降嫁させた狙いは何だったのでしょうか。

そもそも、楊堅の思い描く「突厥の懐柔策」とは、単に突厥を「臣従」させるのではなく、「分裂によって弱体化させた上で臣従」させることにありました。

つまり、あらかじめ沙鉢略可汗に千金公主を娶らせ、「北周宗室との強固な結びつきというかせ」をはめておくことで、沙鉢略可汗が「隋とすぐに結びづらい状況」をつくったのです。

そして、その上で長孫晟に命じて、まず沙鉢略可汗以外の弱小の可汗らに「隋への内応」を誘わせていくこととなるのです。

先に外堀から懐柔し、大可汗の他(た)鉢(はつ)可汗を突厥内で孤立させることに、楊堅の突厥分裂計画の第一段階の目的があったと、僕は考えます。


年表2

(次回へつづく)



※1 突厥の懐柔のために突厥へ降嫁した隋・唐の皇室の女性。
※2 皇帝の母親または皇后・妃の一族。楊堅は宣帝の舅にあたる。
※3 君主の位を臣下が奪うこと。表向きは、君主が有徳の臣下に帝位を譲                                             
    る 禅譲ぜんじょうの形式を取る。

#世界史がすき

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