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「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(1)

 400年ぶりに中華統一を果たした「ずい」と、その後を継いで300年に渡る繁栄を築いた「唐」。「分裂」と「統一」とを繰り返してきた長い中国史の中で、二つの帝国の誕生は、石見清裕いわみ きよひろ氏曰く、

「異民族・異文化を受け入れた新しい「中国人」による新しい文明の形成」

「唐の北方問題と国際秩序」石見清裕,1996

を意味するとされます。

 一方でその陰には、同時にその異民族との熾烈しれつな攻防がありました。その異民族が、中国の北方に君臨した中央ユーラシアの覇者・突厥とっけつです。

突厥は隋・唐両帝国にとって、最大の脅威であるとともに、「中華統一の契機を与えられた存在」でもありました。

 このシリーズでは、隋・唐の皇帝たちの壮大な外交戦略を眺めながら、突厥の懐柔のために隋・唐の皇室から突厥へ降嫁した「和蕃公主わばんこうしゅ」の視点を交えつつ、「外交面からみた隋唐帝国の確立」に迫りたいと思います。



第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂


1、突厥の登場と「2人の孝行息子」




 中国が「漢民族の南朝」と「異民族の北朝」に分裂していた「南北朝時代」(西暦439~589年)の末期。581年に、北朝から興った「隋」が建国された当時は、南にはまだ南朝の王朝・ちんが並立していました。

 隋の建国者である文帝ぶんてい楊堅ようけん【生没年・541~604年 / 在位・581~604年】は、来たる「陳の平定」へ向けて、北方の憂いを断つ策を練ります。

こうして、突厥の有力な可汗カガン(北方遊牧民族の王号、後の「ハーン」)たちに「離間りかんの計」(敵同士の仲を裂く計略)を仕掛ける、楊堅の長大な「突厥分裂化計画」が幕を開けます。

 第一部では、隋の文帝の離間策を中心に、突厥が東西分裂を経て、隋へ帰順するまでの道のりを追っていきます。


 
 初めに、突厥が隋の前身である「北朝」へ侵攻した背景をみてみます。

 6世紀半ば、モンゴル高原でトルコ系遊牧民族の突厥が台頭して間もなく、中国の北朝では、鮮卑せんぴ族(中国の北・東北部の騎馬民族)の王朝である北斉ほくせい北周ほくしゅうの2国が成立しました。

6世紀後半(557~577年頃)の中国と突厥


両国は、互いの国を牽制けんせいすべく、それぞれ突厥に莫大な贈物をし、当時の突厥の他鉢可汗たはつ・カガン【在位・572~581年】は、

「南に2人の孝行息子(北斉・北周の各皇帝)がいる限り、わが国は物資不足の心配はない」

『周書』突厥伝

と豪語する程でした。

突厥は、オアシス国家(中央・西アジアの砂漠地帯の都市)などの西方諸国とも交易はしていましたが、つまるところ、「北朝両国に多くの物資を依存していた」のです。

現に、突厥はその成立から約30年間は、北朝2国と婚姻関係も交えつつ良好な関係を築き、記録に残る限り中国への侵攻は全くありませんでした。

同じ遊牧騎馬民族でも、かつて漢帝国(前漢、紀元前202年~西暦8年)を脅かした・匈奴きょうどと異なり、あくまで中華の征服を目的とせず、「中華王朝との相互扶助による共存を望んだ」点に、突厥の特徴がみられると僕は考えます。

 しかし、やがて北周は577年に北斉を滅ぼしたことで、突厥に対して北斉への牽制目的で贈物をする必要性がなくなります。

年表1

ここに、突厥は北斉・北周という「2人の孝行息子」を突然失うこととなります。そのため、突厥は中国で物資を確保する必要が生じ、北周、次いで隋へと侵攻して略奪を行うに至ったのでした。


(次回へつづく)

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