「人生で重要な事は全て柔術から学んだ」

1 ヒクソン・グレイシーの言だそうである。

 意地悪な見方をすれば、ヒクソンは人生のほぼ全てを柔術に捧げたから、柔術以外から人生について学ぶ機会がなかっただけとも考えられる。

 だが、人生の重要事について学ぶ機会は、柔術以外のどんなモノにでもある。
 子供の頃からスポーツや学業にひたむきに取り組んだ人は、その経験からきっと貴重な人生訓を得ているだろう。
 そうした経験を得る対象は、大人になってから始めた仕事や趣味であったとしても変わらないはずである。

 要は、目の前の今日一日をどれだけ真剣に生きて来たか?であり、そうした日々の積み重ねから人は人生について学んでいくのだろう。

2 以前、ある人が「競技柔術をしない人にとって、柔術は(実)人生で役に立たなければ意味がない」と語っているのを耳にした事がある。

 一般論としてはその通りだと思ったが、「道場を離れて、柔術を実生活の中でどう役立てれば良いのか?」という点について、その時の私には答えが出せなかった。

 これまで私は、古流柔術を始めた時から通じて20年以上武術を稽古し続けているが、武術の稽古が実人生で役に立ったと言えるのは、次のたった2回だけである。

 今から10年以上も前の話になるが、自転車に乗って横断歩道を渡ろうとしていると、横合いからよそ見運転をした(軽)トラックが突っ込んできたので、咄嗟にサドルを蹴って「跳び受身」をし、擦り傷だけで済んだ時がひとつ。
 
 その際、自転車がトラックの下敷きになって、フレームが真っ二つに折れてしまった。
 実況見分に立ち会った警察官からは、「武術をやっていなければ命が危なかったかもしれない」と言われたので、私が受身の重要性について繰り返し説くようになったのも、この時の体験が基になっている。
 極論かもしれないが、柔術の稽古を続けるか(始めるか)否かで迷っている人が私の目の前にいるとしたら、「技やテクニックは何ひとつ覚えなくていいから、稽古を辞める前にせめて受身だけは覚えて帰って欲しい」とアドバイスするだろう。

 もうひとつは、コロナ禍の最中に稽古が終わって家路についていた時の話になる。

 ほの暗い路地の前方20mくらいの所に酔っぱらい(泥酔者と言っていい)が二人いる。
 その内のひとりが、私に向かって突然「ハゲ!」「アホ!!」といきなり罵声を浴びせて来たのである。
 腹は立ったが、「かわいそうに・・・コロナで日頃の鬱憤が溜まっているのだろう。」と思って、来た道をUターンし、迂回路を行く事にした。
 「逃げるな!!!」という声が遠くから聞こえたが、無視してそのまま家に辿り着いた。

 今考えてもあれは賢明な判断だったと思う。
 少なくとも、売り言葉に買い言葉で酔っぱらいと喧嘩になった挙句、自分からアスファルトの上に寝転がって「オープンガード」の姿勢を取っていたら、「私が」大怪我をして一生後悔していたと思う。

3 最近は体調が優れず、やる気が出ない日々が続いていた。

 私の数少ない友人からは、「現状に勝とうと無理してあがく必要はない。今はとにかく守りを固めて、状況が好転するのを待つべきだ」というアドバイスを貰った。

 アドバイスを貰った事実だけでも嬉しいが、それ以上に、彼のアドバイスの内容が「悪いポジションを取られたら、まずはフレームディフェンスをして、相手のミスを待つ」という私の柔術スタイルと(言葉の上ではあるが)酷似している事に気付いたので、ハッとさせられた。

 もしかすると、「柔術を(実)生活に役立てる」という事の意味は、柔術を通して身に付けた哲学なりモノの考え方を実生活に応用するという点にあるのかもしれない。

 冒頭でも述べたように、こうした人生哲学や人生訓というのは、日々の生活を真剣に生きて、それを自省する時間を持つ事さえ出来れば、誰でも体得可能だと思う。
 自分の実人生から引き出された人生哲学や人生訓が必ずしも万人に等しく適用可能な内容を持つとは限らないが、ただ漫然と日々を過ごすより、そうした実生活に応用可能な哲学なりモノの考え方を有している人の方が、人生の逆境においても粘り強く生きていくことを容易にするのではないだろうか。

 これまで柔術の稽古を実生活に活かす事が出来なかったというのは、まだまだ私の精進が足りない証だろう。
 ただ、競技に関わらない一般会員の人にとって役に立つ(かもしれない)のは、個別のテクニックよりも「柔術を通して人生とどう向き合うか?」という話の方だと思うので、彼らから求められた時にそうしたアドバイスも出来るよう、今後も稽古を通して己の人格を陶冶していきたいと考えている。

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