【連載小説】 歪みの旋律~わたしが愛を知るまでのレッスン~
すっかり年の瀬です。
皆さまごきげんよう。
さて、今回も、ある文芸コンテストをパトロールしていたときに、出会った女性をご紹介いたします。
彼女は、双子の姉が亡くなって二年、時が止まったように生きてきました。
姉と、その彼氏に身も心も縛られていたのです。
そこに音楽教室を主宰する男が現れます。彼女は、以前バイオリンを弾いていましたが、姉の死でそれを遠ざけていたのです。
果たしてこの出会いは、彼女の時を動かすのでしょうか。
私がとても更新を楽しみにしている連載小説の一つです。
舞台は札幌、歪みの旋律、大人のビターラブストーリー。
なお、紹介させていただくにあたって、作者の許可を得ています。
作 実緒屋おみ氏
序章 piangendo~悲しげに~
小さく呻く男をソファまで運び、理乃(りの)は窓を見た。薄曇りの空に茜色の夕陽が眩しい。
「酒……よこせ」
「もう十分酔ってます……上江(かみえ)さん、これ以上はだめです」
「お前、いつから俺に逆らえる立場になった?」
顔を歪ませ、短い赤毛をくしゃくしゃに掴みながら男――上江は言う。ニヒルな態度と言葉に理乃は悲しみを堪え、それでも黒髪のボブを左右に振って抵抗を示した。
「莉茉(りま)ならくれたぞ」
「……姉さんは少し上江さんに甘かったんです……」
「妹のお前と違ってな。莉茉は優しかった。優しくて、明るくて……双子でも大違いだ」
そんなこと、自分が一番わかっている。胸の疼きを溜息に変え、ソファに沈んでいく上江の様子に静かにキッチンへと向かった。ごみ箱やシンクは綺麗だ。ほとんど外食で済ませているのだろう、と推測し、冷蔵庫を開ける。
(姉さんが生きてたら、こんな上江さんを放っておかないよね……)
同時に、理乃と上江との関係が歪んでいることに悲しむだろうとも感じた。
冷蔵庫の中はほとんどが空だ。並ぶ酒の中にミネラルウォーターがあったから、ピッチャーとコップへ注いで上江の元へと戻る。
ガラス製の机にそれらを置いたとき、不意に腕を掴まれた。
「俺の名前を呼んでみろ」
虚ろな鳶色の目が理乃を捕らえる。理乃は軽く眉を顰めてまた、頭を振る。上江が笑う。これ以上ないほど冷淡に、残忍に。
「隆哉さん、って呼べよ。あの日みたいにまた抱いてやるから」
「放して下さい……もうあんなこと、したくないです」
は、と鼻でせせら笑う上江――隆哉に理乃は泣きそうになった。一夜の過ちを思い出して。急病で死んだ姉、その彼氏だった隆哉、二人とも理乃の憧れの人だった。
「莉茉の変わりにもなれないんだな、お前は。なんのためにその顔がある?」
そんな憧れの人に、罵詈にも似た言葉を投げかけられていることが辛い。目頭が熱かった。窓からの逆光で顔が見えてなければいい、と思う。泣きそうな表情を見せてはだめだ。過ちで体を重ねた際、「泣き顔がそそる」と隆哉が言っていたことを思い出したから。
中腰になったまま手が離れるのを待つ。隆哉の瞼がどんどん落ちていくのと同時に、理乃の腕を掴んでいた力が緩まった。少しして、寝息が聞こえた。
ほっとしながら、理乃は腕を引き抜く。隆哉が起きる様子はなかった。テーブルの上にあるエアコンを操作し、風邪を引かないように冷たい室内へ暖房を入れる。
今は秋の中旬。北国の秋は寒い。隆哉が着ていたシュノーケルコートは玄関に脱ぎ捨てられていた。それを拾い、眠る隆哉の上にかける。
「莉茉……」
寝言で姉の名を呼ぶ隆哉に一抹の苦しさを覚え、理乃は小さく嘆息した。
半ば強引に体を貪られた際も、そうだ。隆哉は理乃の純潔を奪いながら莉茉の名を呼んでいた。これ以上なく悲しげに、辛そうに。
一日だけだが、姉の身代わりみたく男女の仲になったのは事実だった。以来、酒に溺れ始めた隆哉を介抱するのは理乃のルーティーンになっている。今日も行きつけのバーで酔っ払った隆哉に呼ばれ、仕事帰りに理乃が家まで彼を連れて来たのだ。
つっぱね、撥ね除けられたらどんなに楽だろう。しかし兄のように慕い、それだけでなく隆哉のピアノに惚れている身としては、今の彼を看過できない。今はただの酔っ払いだが、隆哉は姉と同様、ミュンヘンの国際音楽コンクールでも入賞している天才だ。
所詮秀才止まりの自分とは違う。つくづく姉や隆哉との違いを突きつけられた気がして、大きく溜息をつきたい気持ちに駆られた。
「……お休みなさい、上江さん」
それすら姉を裏切った身としては許されない気がして、堪える。小さい声に反応はなく、眠る隆哉をそのままに理乃は部屋から出た。
足早にマンションを後にする。ネイビーのコートに吹き付ける風は冷たく、街路樹が黄色い葉っぱを揺らしていた。空はいつの間にか藍色になっており、周囲の明かりが眩しい。
自宅は十分ほど歩いた近距離にある。表通りを通れば花屋やケーキ店、ドラッグストアなどの照明が煌々と光っていた。
いつもの風景に何も思わず、横断歩道を通り家へと急ぐ。冷えた風に熱かった目頭は乾いており、群青色のストールへ縮こまるように顔を埋めたそのときだ。
ビルの一角に、音楽教室ができていることに気付いた。確か数ヶ月前からテナント募集、とはあったが、今日オープンしたのだろうか。帰り道の途中ということもあり、否応なしに教室へ目が向いてしまう。
ローマ字で『宇甘(うかい)音楽教室』と書かれた看板があり、個人教室なのだと理解できた。
暖色系の照かりに包まれたロビー、受付と思しき場所の奥にあるアップライトピアノに釘付けになる。足を止め、ガラスに手を当ててピアノを見つめた。
(わたしがバイオリンをまた弾いたら、上江さんもピアノ、弾くようになるかな……)
隆哉はピアノでも、特にモーツァルトの曲が得意だった。過去を思い出してぼうっとする。理乃と姉の莉茉はバイオリンを習っており、三人でよく曲を奏でたものだ。二度と帰らない思い出に浸りつつ、表に貼られたポスターに視線をやる。
『レッスン生徒募集中。バイオリン、ピアノに興味のある方はぜひどうぞ』と書かれたシンプルなポスターで、住所と電話番号が記載されてあった。
理乃は二年、バイオリンに触れていない。姉が死んだときから今に至るまで、ずっと。隆哉もすっかりピアノから離れている。もし、理乃がバイオリンを姉のように弾けるようになったなら、隆哉も再び鍵盤に手を置くかもしれない。
「教室にご興味がありますか」
「えっ……」
不意に中から出てきた男性に声をかけられ、慌ててそちらを見た。
黒い切れ長の瞳に、焦げ茶色の髪。四角い眼鏡とスーツがよく似合う男だった。顔立ちは整っているが無表情で、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせている。年齢は三十過ぎ、といったところだろうか。見下ろされる形で問われ、理乃は顔をうつむかせた。
「いえ、見てただけです……」
「……あなた」
「はい……?」
切れ長の目が、何かを探るようにこちらを見てくる。しかし男は何も言わない。視線が痛く、理乃は軽く頭を下げた。
「た、ただ見てただけなんです……ごめんなさい」
「これを、よろしければ」
そのまま立ち去ろうとする自分へ、男は先程のポスターと名刺がクリップされたものを差し出してくる。つい受け取ってしまい、名刺に軽く目を通した。
(序章つづく……)
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