見出し画像

とりきも

読書が習慣になる以前に、活字にふれようと自ら手に取ったのはそうとう年を重ねてからのことだった。
活字の世界が国語の教科書のそれとは違い、夢と希望という言葉では言い合わらせないほどの一生に実体験できない世界と感覚を見せてくれた。
しかし、不幸なことか。私は1日に活字を300字以上読むと眠りについてしまう。100文字程度なら支障はないのだが、200文字を読み終えたあたりから、次第に視界が二重にぼやける。ちょうど乱視の症状と同じだそうだ。まだこの段階でも文字を追って、文章を捉えることは十分できる。
だが、250文字を超えた時、今読んでいるのがどの文章か、どの文字か、はっきりと捉えることはできない。いや、ものは捉えている、しっかりと言葉はつかみ、キャラクターは見え、映像は流れているのだが拳からしとしとと水がしたたるように活字が消えていく。
長編は一週間で読み終えた試しがない。もう長編を読むことはますます遠のいていくが短編だけでも十分この狭い視野は広がったように思える。
だが一番悔やむことは、この感覚を後になって知ったことだった。


何か新しいことを教えてくれるのは、決まって自主的な行動の先でしかなかった。学校が教えてくれたのは、「教えろ」と決められたことの内容でそれについて大量の時間を浪費したことはいつ悔やんでも悔やみきれない。
歴史から人は学ぶべきだと言うが、大人になってから気づく新しさの中に少しの後悔はをどうも大人たちは誤解している。人生経験とか、老舗カレーに入っている果実類の隠し味と勘違いしているのではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?