見出し画像

命を見守り、命を看取る、それは、命を感じる、命を受け入れる、そんな学びのように感じます。

皆さん、こんばんは。
連日、私の父の入院に関する記事にお付き合い頂き、本当にありがとうございます。

激励をたくさん頂きました。
そして、たくさんの命に関するご意見を頂きました。
その中には、命を見守り、命を看取った、ご経験もありました。
私は、父の入院以降、とてつもない学びをさせて頂いているのだと、日々、感じております。
皆様方に、心からの感謝を申し上げます。

私のこれまでの基本的記事は、自分の闘病や、自分のメンタルの弱さや、親の介護のこと、音楽のことなどがメインでした。
ここへ来て、急に命のことを深く考えだし、命を感じ、命を受けいれようとしています。
日が過ぎる(父の状態の悪化)につれて、私の思考は現実逃避気味で、思考停止に近いのですが、それでも毎日、命について深く考える時間があります。

父に万一のことがあった場合を考えると、途端に涙がこぼれてきます。
そんな時は、父との思い出がよみがえります。
父は、私が9歳の時に父になってくれました。
自営業だった父は、私が子供の頃から働き者で、徹夜で仕事をする日が幾度もありました。
私はそんな父のおかげで、成長をすることができたのだと思うと、まだまだ親孝行が足らないと感じ、涙が止まらなくなってきます。

父のことを考える余裕がない(考えることが怖い)時間でも、命については考えています。
難病闘病中の自分自身の命についてであったり、家族の命についてです。
私の命は病気をしていない人より短いかもしれない、でも今は生きている、今日の日の命がある、それを改めて実感しています。
家族だって、当たり前に日々、一緒にいてくれるわけではない、命があるからだということを、痛感している日々です。

命を感じる、命を受け入れる、簡単なことじゃないです。
でも、命を見守り、命を看取る、その経験が、きっと人間の命に対する思いを進化させてくれるのではないかと思いました。
私は、父が今、命の瀬戸際にいる様子を見て、いつか自分にも訪れることなのだということも感じています。

父は心不全、私は間質性肺炎、共に呼吸苦の病気です。
父の様子を見るのは、自分の将来を見るようで怖い思いもありました。
父は私と違って、健康管理をちゃんとしていました。
それに比べ、私はどこか慢心しているところもあります。
同じ闘病でも、明日生きてられるかを考えながらの闘病と、慢性的感覚の闘病では、必死さが違うのではないかと思いました。
必死さ、もしくは命に対する捉え方・受け止め方・取り組み方が違うのではないかと思います。

真剣に考えすぎても疲れてしまうので、今日の記事での語りは、これぐらいにしたいと思います。

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?