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残りの人生を予測できる年代になってしまったからこその哀愁はあれど、開き直りもまた芽生える今を愛する気持ち

私は今まで敢えて自分の年を公表してこなかったが、記事を読んで頂ける方には何となくわかるように示してきたつもりだ。
だからおそらく、ほとんどの方がわかってくれていると思っている。
そう、もう人生を折り返してしまっているのだ。

若い頃の記憶はすぐにでも思い出せるし、自分自身はそこまで変わったとも思ってないけど、体は一番正直だ。
完全に年相応になってしまっている。
病気をした今は、ビジュアル的にも衰えを感じる。

そんなことばかり言ってると、暗い話題になってしまいそうだが、事実だから仕方がない。
結局、どんなに若作りをしようと、努力をしようと、完全に老いを食い止めることはできない。
私はそういうことが言いたかっただけだ。

しかし、老いとは、そんなに悪いことだとも思わない。
老いは、すなわち、気付きだからだ。
老いは、積み重ねの先にある。
積み重ね、それこそ、人生の醍醐味だと思うからだ。

いちいち気にしていたことも、気にならなくなってくる。
気にしたとしても、短時間で回復をしたり、切り替えができるようになってくる。
これはとても大事なことだ。
それだけ時間を有効活用できるからである。

若い時は、まだそれができない。
いわゆる、開き直りができないのだ。
いつまでも引きずり、一人で悩んだり、色々な人に話したり、心理系の本を読んだり、引きずって、引きずって、疲弊しまくっても、まだ引きずり続ける為の方法を探している感じの過ごし方をしていた。

これこそ若さなのかもしれない。
若さとは無駄を存分に味わうことができる、貴重な時代だ。
しかし、老いとは、その無駄の積み重ねの上にある。
もう、無駄とは何たるかをわかる年代になってきたわけだ。

若い時と違って、1時間の使い方を丁寧に考えることができる。
1時間の質と重みが違ってくるのだ。
これはすごいことではないだろうか。
結果的に老いてからの1時間とは、若い時の10時間にも匹敵することがあっても、決しておかしくはない。

そう考えると、老いは、もしかしてそんなに怖いものでもないのかもしれない。
そんな風に考えられるようになってきた自分がいる。
少しだけ、自分を楽にしてあげる方法を気付けるようになったのだろう。
気付けるようになったことは、心を軽くしてくれる。
余計な囚われから解放されるということだろう。

考えてみると私の若い時代はまさに囚われ人のようであった。
まるで囚人のような生き方を自分に課してきた。
私はあのまま生きていたら、きっと終身刑になっていたことであろう。
長い年月をかけて、私は自ら鎖を解くことができたのかもしれない。

今この瞬間を愛し、今日の日の平穏無事であったことに感謝をし、一日を夜更かしをしながらも終えることができることが、この上ない幸せなんだということに気付けるようになった私で良かった。
囚われ人であった日々は、無駄なようで無駄ではなかったということなのだろう。

好きなように生きていこう、喜びや楽しみだけでなく、苦しみも悲しみも、受け止めて、全身で生きていることを感じながら生きていこう。
まだ私の人生は残っている、終わりじゃない、いつか必ず終わりが来るけど、終わりがいつか決まっているわけではない。

自分の人生の限界を自分で決めたら、もうその範囲でしか生きられなくなってしまう。
もう、そんな人生はまっぴらごめんだ。
私は、老いても、低飛行でいいから、飛び続けていたい。
そして、好きな所に着陸して、好きな所で離陸したい。
そんな後半生を送りたい。




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