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育ての父との日々を振り返りながら、親子の絆を見つめる、感じる、感謝する ※世相を考え加筆修正済み

2日、夜中まで起きていた私は、おそらく3時頃に眠ったはず。
深い眠りに入ったばかりの4時頃、けたたましい(けたたましく感じた)電話の音で目が覚めた。
母からだ。
出た瞬間に、
「どうした?なんかあった?」
と尋ねた私。(緊急事態はわかっていた)

父は過去、医師から何度か「ご家族を呼んで下さい」と言われるような、危篤寸前の大病をしているので、私は普段から、母に「どんなに小さいことでもいいから異変があれば連絡してくるように!」と言ってあった。
割となんでも連絡してくる母ではあったが、小さいことで夜中に連絡はしてこない。
おそらく、かなり様態が悪いのだろうと感じた。

母は既にパニクっていた。
「父が咳き込み、胸が苦しいと訴えている」
とのこと。
「とにかく、すぐに救急車を呼んで」
と言うと、
「もう呼んだ」
との話。
急いで支度をして、車に乗る。
母に病院の確認の電話を入れると、いつものかかりつけの病院でいいと言う。
急いで向かったが、病院では父の受け入れは聞いてないとのこと。
もう一度、母に電話をして確認をすると、
「まだ救急車が出発していない」
との話。
「は?確認したんじゃないの?」
と言ってる矢先に、救急隊員の人が電話に出た。

「娘さんですか?お父さんはどんな感じでしたか?」
と聞かれる。
「母からは、咳き込んで胸が苦しいと言っていると聞いています」
と答える。
答えたところで、なんかおかしいなと思った。
一緒に住んでない私が、なんで、お父さんはどんな感じか答えるんだ?
母は一体、救急隊員さんに何を話したんだ?との疑問が走る。
救急隊員さんは、
「お父さんは、咳がひどい、心臓もかなり弱ってるので、心臓の病気には間違いないでしょう。病院を当たってみますので、決まり次第、連絡入れますね。」
と言って、電話は切れた。

電話が鳴った。
急いで出る。
「かかりつけの病院に向かいます」
との話、良かった、移動しなくて済んでと思った。

間もなく、母から電話。
治療室の前にいるとのことなので、向かうと顔を真っ赤にした母がいた。
母は普段、毒親気質だが、メンタルが弱い。
父の様態悪化を前にして、気が動転しているのだろう、まるでひどいしもやけをしたように、顔が真っ赤になっていた。

そうこうしてるうちに、担架で運ばれてくる父を見る。
父は激しく咳き込み、意識は朦朧としているように見えた。
何度も命の危機を脱してきたが、今度こそダメかもしれないと覚悟をした。
(継母が嫌いで)実父を捨てた姉達に連絡をしなければならないな、来てくれるだろうか?
そんなことを考えた。(以前の父の危篤時には、連絡をしたが面会を断られる。泣いて懇願し、無理矢理来てもらったが、父とまともに会話してくれず、母と私は恨み節だけを聞かされた経緯がある。)

母には、
「お父さんは年末まで楽しく過ごしていたのだから、人生をまっとうできたはず。ここまでもってくれたことはすごいことなんだよ。」
と言って聞かせていた。
私は、そんなことを冷静に言っている自分に驚きを覚えた。

父は私の実父ではない、育ての父だ。
紆余曲折があった。
可愛がられなかったり、悪く思われがちだったり、姉達が両親を捨てるまで、そんな微妙な関係があったと思う。
姉達が両親を捨ててから、父と私の関係は変化してきた。
父が私を信頼してきたし、私も父を大事に思う気持ちが強くなってきた。

いつからかはわからない、私は実の母よりも、育ての父を大事にしたいという気持ちが強くなった。
私はこれまで、自分の難病の体を押してまで、両親に尽くしてきたのは、そんな理由からが大きい。
母は気が利かない人なので、父の介護の仕方が雑である。
私は父の安心安全を第一に、世話をしてあげようという思いで接している。
それが、父の心を溶かしてきたのだろう。
私も父を守らなければとの思いが芽生えてきた。(私はこれまで父に守られて生きてきたことを実感もした)

父を大事に思う気持ちは、育ての父とか、実父であるとか、そんなことを超えた感情である。
父は父だ。
私は、父に対して、後悔はほぼないと思った。
だから、父がまっとうした人生を、受け入れよう、そう思えていたのである。

幸いにして、父は持ちこたえた。
私自身、明日をも知れぬ難病を抱えている身、父の入院を通して、親子の絆を思い、医療関係者の方々に感謝をし、そんなことをただただ心と体で痛感した、二日間だった。

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