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意味もなく淋しい時というのは本当に意味がないのだろうか?

私は意味もなく淋しくなる時があります。
でもふと思いました。
本当に意味がないのかしら?って。
意味がないように思おうとしているだけで、本当は心の奥底では理由をわかっているのではないかしら?って。

もちろん、年齢を重ねると、(女性は特に)涙もろくなったりするとはよく聞きます。
それは、感情を抑える機能が衰えてしまうからだと言われています。

でもそれとは違う意味で、私は自分は時々、意味もなく淋しくなるのです。
そういう時に、音楽や映画やドラマや本の世界に逃げます。
それで、自分の淋しさを極端にドラマチックに感じようとしてみたり、逆に自分の淋しさを無視して極端に現実的解釈をしようとしてみたり、要はどっちも無理があるのです。

なぜ、そんな無理なやり方で、自分の淋しさと向かい合おうとしてしまうのでしょう。
私は淋しく感じることに、どこか罪悪感を感じているのではないかと思いました。
淋しいという感情は、人間の感情として、ごく自然の感情のはずなのにです。
それなのに、淋しく感じることに罪悪感を感じてしまうのです。

私が淋しく感じたところで、別に誰かに迷惑をかけるわけでもありません。
ではなぜそこまで自分は罪悪感を感じてしまうのでしょう。
家族がいて、友人がいて、病気はしているけどなんとか踏ん張って生きていて、趣味もあって、細かい悩みはあれど、そこまで淋しさを募らせてしまう理由はないはずなのに、淋しさを感じること自体が、わがままなことのように感じてしまうからなのではないかと思いました。

ということは、私は自分の心に蓋をしている何かがあるのではないかと思ったのです。
その答えは、わかったような、わからないような、これまた複雑な感覚なのです。
自分がなぜ淋しく感じてしまうのか?
その答えをこれかなと仮に予想したとしても、その予想した答えについてまた思考を膨らませてしまい、もう自分の感情がなにがなんだかわからなくなってきてしまうのです。

もう、抗わない方がいいのかもしれないとさえ、思ってきます。
そうこうしているうちに、自分の淋しさが、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ、和らいできたように感じてきます。
やっぱり、私の淋しさには意味がなかったのでしょうか?
そもそも、淋しさに意味があるとかないとか考えること自体に意味がないのかもしれません。

私という人間は、こうして、いつも自分の感情だけでなく、時には人の感情のことまであれこれと想像をめぐらし、一人で疲れてしまうことがあります。
たまに喜ばしいと感じることがあっても、ちょっと想定外のことが起きたりすると、一喜一憂してしまい、感情の乱れが起こります。
もしかしたら、そうした感情の乱れの疲れが、自分の淋しさの中に日常的にプラスされていってるのかもしれません。

淋しいという感情は、
淋しくなるようなことがあるから、淋しくなる場合と、
淋しくなるようなことがなくても、淋しくなったら淋しいなという憂いからくる場合と、
両方があるように思います。

これはあくまでも私自身の感情の動きについての洞察です。
皆さんに当てはまるわけではないので、ご了承下さいませ。

さて、そろそろ休む時間になってまいりましたので、今夜の気分で曲紹介といきましょうか。
Winkで、「淋しい熱帯魚」です。
Wink、大好きでした。






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