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星神楽㉑ 軽太子(かるのみこ)と衣通姫(そとおりひめ)


  梅雨晴れの水無月の夕べ、篠笛の練習をするために、長友先生と図書室に向かった。
 長友先生から、本の紹介を小耳に挟みながら、僕は図書室のドアを開けた。

「辰一君に勧めたい一冊があるんだよ」
 銀鏡中の図書室は小さいけれども、僕は好きだった。
 山奥の学校にある、小さな異世界のような図書室。

 長年、愛され続けた痕跡を残す、青かび臭い図書室。
 ささやかな温もりが、残る図書室で、独り本を読み耽るのも嫌いではなかった。
 窓際からは銀鏡神社が見えた。
 鬱蒼と茂る、鎮守の森。
 石長比売を祀るお社。

 図書室には閉館だったはずなのに、もう一人いた。
 その正体は清羅さんだった。
 清羅さんはニキビだらけの、頬を大きく窪ませながら、僕に会釈した。
 本棚から長友先生が、一冊の本を取り出した。

「この本は神楽の理解にもずっと、繋がるだろう」
 その本は『古事記』の少年少女向けに解説された本だった。
「銀鏡は古事記の里だからな」

 長友先生の独り言をよそに、僕は包みから篠笛を取り出し、唇に当てて、節穴に息を当てた。
 伯父さんたちから指導を受けて、かれこれ、三か月は経つのになかなか、軽やかには吹けなかった。
 神楽笛は西洋楽器と異なり、格段に吹けるようになる過程が断然、難しいのだ。
 息をどんなにかけても、掠れた音さえ、出なかった四月とは違い、今では音が聞こえるまでは吹けるようにはなった。
 あとは指を動かし、旋律を習得するだけなのだが、案外、暇がかかり、一つの穴に集中すると気を取られ、他の穴に力が入らない、というアクシデントがしばしばあった。

「軽太子と衣通姫について、知っているかな」
 長友先生の白髪が、水分を多く含んだ、西日に反射した。
「軽太子(かるのみこ)は日嗣の御子であられ、衣通姫(そとおりひめ)は内側の衣から照り輝くような美しい姫だった。二人は同じ父と母を持つ兄妹だった。お二人は将来を約束されたにも関わらず、非難囂々咲き乱れる渦中で、軽太子は皇位を剥奪されてもなお、妹君の姫を恋い慕い、流刑地で情死を決行したのだよ。おっと、中学生にはちょっと、刺激が強いかな」
 残酷な神話は僕のパッションを、ゆるりとくすぐる。
 長友先生は授業中でも、大学生を相手にするかのような、難しい話題を脱線しながら、話すのが癖だった。


 篠笛を吹こうと、鳩尾に力を込めるとピー、と甲高い音色が室内に鳴り響いた。
「だいぶ吹けるようになったな」
 長友先生から褒められ、僕はちょっとした誇らしさが生まれた。
 僕の家には先生ほどの大人がおらず、顔を知らない、父と接するように先生を慕えた。
 もちろん、それが大きな勘違いだ、とは薄々、気付いてはいたものの、僕の本音が許さなかった。
「辰一君は難しい話でもよく、耳を傾けるから頼もしいよ。そういえば、学期初めに受けた県模試の結果が返却したんだが、すごかったぞ。君は県内で一番だったんだ。英語と数学が百点だったからな。宮崎市内の私学や公立中高一貫校を差し置いて、銀鏡中の君が首位として、名を連ねたんだよ。これには驚いたな」

 目を細めた、先生に嫌味はなかった。
「すごいな。辰一君。君は大学に行くといい。銀鏡では僻地医療が課題だから、宮崎大学医学部ならば、夢ではないよ。地域推薦入試という手もあるし」
 塾通いの同級生を差し置いて、首位になったときも、あからさまに陰口を叩かれはなかったものの、クラスメートからは極まりの悪い、目付きで見られていた。

 自分と同等ぐらいの成績を残した、クラスメートが惜しみなく、教育費を与えられていたのを傍目から見て、内心羨ましかった。
 大きく奮い立たせても、担任の先生からは軽蔑され、クラスからもますます、浮いていた。あの人の風評はそれほど、芳しくなかったからだ。

「いや、将来が楽しみだな。大江健三郎の本を中学生で読んでいた生徒を見たのは、君が初めてだよ」
 必要以上に褒められるのも、悪くはなかった。
 自信のなさを補完するように、僕は耳を傾けた。
 ネガティブな思考回路は、とめどなく、波乱を巻き起こし、呼吸さえも逆らおうとする。
「先生は戦後派の純文学が高じて、国語科の教員を志望したくらいだから、こうやって、学論を語るのは冥利に尽きるんだ。文字を追うのは、心身の安定にも繋がる。辰一君は大江健三郎をどこで、知ったのかい?」
 その質問に僕は、篠笛の練習を忘れて語った。

「東京にいた頃に新古書店で買った、参考書に載っていたんです。『飼育』が」
「高校生でも読まないんだよ! そうか、その参考書がすごいな」
 文庫本で読んだ『死者の奢り・飼育』は、少年期特有の憂愁や倦怠感、血の通った衝動性をつぶさに描写した、傑作だと思えた。

 文字を追うたびに、身体の中に通じる、精神性が程よく刺激され、意地らしいまでに情景に耽溺し、功名心が満たされていくのが腑に落ちる。
 僕も向上心が皆無だったわけではない。恵まれない環境下で、高みを目指そう、と模索するのは、称賛される行為だと思うから。

「若いうちはよく、本を読むといい。君には三島由紀夫や太宰治、福永武彦、川端康成、谷崎潤一郎、夏目漱石、森鴎外も読んだら、感銘を受けると思うよ。太宰治の短編は、教科書にも載っているし、それを機に読書に目覚めるのもいい。先生は君の年齢のときに、中島敦の『李陵・山月記』を読んだよ。漢文もまだ、習っていなかったのに背伸びしたなあ、と思うよ」
 まだ、読めていない小説が、この世にはたくさんある。
 先生が名前を言わなかった文豪もまだ、多く作品を残していたからだ。
「先生は若い頃に小説を書いていたんだよ。だが、途中で挫折したんだな。情けないが」
 それなりの美文を書こうとしても、文の綾の闇に吸い込まれ、もたもたしているうちに、永年が過ぎ、暗渠を飛び越えるように少年から青年へ、熟しきれない、壮年から老年となり、後悔を負いながら、寿命を全うするのだろう。
 無論、途中で夭折でもしない限り、その過程も難題ではあるが。

「まあ、それとこれとは抜きに、大いに読書に邁進するのは悪くはない。君の心の滋養に血となり肉となり、結晶化する」
 篠笛の練習を中断したので、先生が退出してから、僕は練習に励んだ。
 清羅さんが練習している、僕をどことなく、観察しているので気まずい。
 本番は多くの観衆が僕らを眺めるのだ。これもあれも本番への踏み台だ、と思えばいい。

 節穴の順番を交互に動かすのを、ただ、ひたすら覚えこむのを修練している。
 最初は手が動かず、次の音律を鳴らそうとしたら、なかなか、指は器用に動けず、のっぺりと何とか、指は上向いた。

 孤愁の夕間暮れに吹き続けるのも、僕は嫌いではなかった。
 積もりに積もった、不安を打ち消すように、呼吸が乱れながら、切ない調べを紡ぐ。
 未完成でもいい。
 道端では露草と野薊、山百合が咲き、とある少女は僕を観察し続けるだろう。
 この一瞬の灯火も彗星のように、虚空の屑へと消え去るのだろう。

 あまりにも練習に没頭したので、清羅さんはいつの間にか、帰宅していた。
 残された僕は濃淡が滲んだ薄闇の図書室で、銀鏡神社の鎮守の森を眺めていた。
 古事記の里は、悠久に続く、言の葉を紡いでいる。
 後世にはすっかり、忘れ去られてしまうかもしれない、山郷の四季は静かに過ぎていく。

星神楽㉒ 水飛沫に跳べ|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)

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