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 嫌いという感情と憎む、という感情は似ているようで似ていない。
 伯父さんの本当の顔を知った今では、それは信念となって降りかかる。

 鰻を食べ終えてから、僕は部屋に戻った。
 母さんと諍いの原因になった、ノートは机の上に置いたままだった。
 椅子に座り、白熱電球の下で、そのノートに触れた。
 千切っていくうちにどうにかなり、大きく闇雲に千切った。
 ついには心のキャパシティが限度に達し、鋏を持って切り裂いた。

 ノートはあっという間に形を失い、切れ端には何かが滲んだような跡があった。
 それは何時ぞやの晩に流した僕の涙の痕だった。
 審判が終わるまで気が置けず、昼間は伯父さんと山に行って、仕事の手伝いをした。
 夜は早めにお風呂に入って、テレビも見ずに眠った。

 一度だけ、長友先生が家庭訪問にやって来た。
 二学期からは学校に来てほしい、と言われ、僕は暗い居間でただ頷くだけだった。
「先生は君の未来を信じているよ。きっと、立ち直れる、君なら」
 長友先生はあんな事件があっても、優しさを忘れなかった。

 無論、あの事件は僕が被った惨禍であって僕は直接、鋭利な手出しはやっていない。
 むしろ、何針も縫う大怪我を負って生死さえも覚束なかったのに、僕は僕を責めるしかない。
 これが俗にいう自責の念という怪物か。
「いつでも学校に来るといい。課題もここにあるから」
 どんどん、未来の階段が音もなく、崩れ去った気もした。
 夏休みまでは考えな、と連れ添った伯父さんは、そこで話をやめた。

 母さんの事件は小さなニュースにもなった。
 ローカル放送でも流れた、と耳に挟んだ。
 警察車両だって、僕の家の門の前には、それなりに止まっていた。
 村中どころか、世界中に発信されたんだから。
「辰一君、先生は待っているよ」
 長友先生は僕が見えなくなるまで、何度も声をかけてくれた。その優しさが痛かった。

 僕は経済的事情が主な原因で、高校には行けないだろう。
 伯父さんから内密な話があったから理解はする。
 伯父さんの家計は火の車ほどではないけれども、ギリギリのところで生活しており、生業とする林業も、二束三文な収入に近く、僕の高校進学の奨学金を肩代わりするほど潤沢ではない、と淡々と説明した。
 勇一の高校進学のために貯金するのが、関の山で僕の学費を負担する余裕はないんだ、と悲痛な顔つきで何度も謝った。
 それでも、家計は厳しいから、勇一も通信制高校になるかもしれない、と伯父さんの口調はとても堅かった。
 両者成敗ってわけだ。
 長友先生も前のように負担になるような、過度な期待を口にはしなかった。

 それが余計にショックの度合いの傷口にふんだんに塩を塗った。
 分かっている。
 身辺にそぐわない夢を語っても、何も状況は打破できない、という真実の詩を。
 世の中、どんなに飛びぬけた、能力を持ち合わせていても、恵まれた環境下にいる奴らよりも不遇に陥りがちなのは、耳に胼胝ができるほど、聞いた話だった。
どんなに底辺の人間が深い叡智と強い信念を秘めていても、易々と強者は握り潰せるんだ、って今に知った話じゃないだろう?

星神楽 64 木立闇|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)


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