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  中途半端な梅雨もようやく終わり、蝉時雨が鳴り響く、文月の雀色時、僕は憂鬱を忘れようと、銀鏡川の岸辺まで歩くのが日課になりつつあった。
 川の音を聞くだけで、その透き通った水の流れを容易に想像できる。

 多くの剥き出しの巨大な岩が横たわる川岸には、数匹の青筋揚羽が走り去る蜻蛉の羽のように飛んでいた。
 あの羽の克明な青さもいつかは、朽ちてしまうのだろうか、と思いながら、僕は悪ふざけする童子のように捕まえよう、と近付いた。
 おーい、おーい、おーい、おーい、とまた、あの同じ声が耳をつんざいた。
 迫りくる山津波の轟のような音が聞こえていたにも関わらず、あえて、耳を塞がなかった。
 また、いつもの呪詛を受けるから、と。

「東京から君に会いに来たんだよ。君に久しぶりに会いたくて」
 その人影を見て川岸の木立闇で立ち尽くした、僕はそれこそ、耳が切り裂かれそうな恐怖感を覚えた。
「神楽の舞、綺麗だったよ。前はあんなに可愛かったのにすっかり凛々しくなっちゃって」
 落ち着け、何か、悪い夢を僕は見ているんだ。
 赤く生々しい文字で施された、魘夢を僕は見ているんだ。
 記憶は過去へと明るみを揺り動かしながら戻っていく。

 あのときの目まぐるしく、変わる体温。
 服のいじらしい床ずれと、ちらつく電灯の怪しい明かり。
 揺れる吐息と吹きかかる微風によって、滲む幾筋の汗。
 触手がじんわりと戦慄きのように追いかけてくる、無数の感覚。

 小さかった僕は何をされているのか、それさえも分からなかった。
「声変わりもしたんだな。俺は前の方が好きだったよ。女の子みたいに可愛かったのに残念だな」
 逃げろ。とにかく逃げるんだよ?
 ただ、幻覚を見ているだけなんだ。
 僕が壊れてしまうと思ったからだ。
 あんなことをされなければ、別の人生も歩めたのかな。

「ああ、悪い子だな。お仕置きしよう」
 銀色に光る精鋭な刃先。
 僕はそれを確認して、それなりの覚悟をした。
 これでこの身にピンで留めた、重大な罰をもらおう。
 僕は自らシャツのボタンを、それこそ、大胆にシナを作りながら開いた。
 これで罪も贖える。
 声は止まらない。僕は誘惑するように目をゆっくりと閉じた。
 胸に何か鈍痛を感じたと思ったら、声はようやく止まった。

星神楽 65 心の水琴窟|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)


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