星神楽 59 業火の紋章
双眸は曳航する、小舟の澪が広がるように大きく見開き、振り返ってはいけない、と残酷な一言が、見事に弾かれた。ここで耳を切られたらいい。そんな恐怖感があぶく、たくさんの泡のように膨らみ続ける。
「伯父さんは君がいなければいい、と思ったよ。俺が君に優しくしていたのは一応、世間体というのがあるからね。いや、優しくするふりをしていたんだよ」
伯父さんの口調は凄烈だった。
「俺は今でも、よく覚えている。千夏が君を宿したとき、俺はその腹の子を、ゆっくりと切り刻んで水に流したい、とさえも思った。それは不可能だった。なぜなら、千夏も死ななくてはいけないから……」
母さんは何を思い、何を悔やみ、何を恨んで、静かに冷たい眼差しのまま、絶望を振り払うように俯いているのだろう。白銀の堅牢な鎖に巻かれ、鏡の音が鳴る独房で、食べる夕餉は全然、美味しくはないだろう。泣けば泣くほど、残酷な現実は余計に突き刺さって見えるし、こんな美しい星空がとんでもない、罪を犯したのか、と恐れ入ってしまう。
「伯父さんは君のことを永遠に許せないよ。千夏は罪びとになってしまった。君を産んでから」
伯父さんは僕を憎んでいる。あの血の鮮烈な赤さを僕はまだ、覚えている。僕の身体から流れ出た赤い血の紋章。
「このまま、君を森の中に捨てようか」
その顔はずっと、険しかった。
「いいよ、伯父さん。僕はここにいる。銀鏡の森にずっといる」
「君はずっと、森の中に隠れるんだね」
その顔は今まで見た表情の中で、いちばん怖かった。
「東京育ちの君がのそのそと帰って来たとは、実に恐ろしい話だよ。俺も若い頃は何度か、都会へ行きたいと思ったし、千夏もその一人だった。多くのクラスメートや仲間が、銀鏡を捨てて都会へ憧れて行ったよ」
伯父さんの憎悪に満ちた表情が手に取るように想像できた。
「おかげで今じゃ、過疎の村だ。よそ者の男と間に生まれた君が、そんなことを言うなんて、甚だ大間違いさ。君は銀鏡の歴史や人々の営みや悲哀も、分からないだろう」
そうだよ。僕にはその歴史の造詣の深さも分からない。知られない、父無し子だから。
「あの戦争でひっそりと語り継がれてきた、神話が永遠に語れなくなってしまったんだからね」
姫が申し合わせた、あの戦争の余波なんだろうか。僕には直視できない、戦争の業火。
「伯父さん、ごめんね。僕が悪かったんだ。僕が母さんを傷つけてしまったから」
なぜ、頭では十分すぎるほど分かっているのに、こんなにも委縮して震えてしまうのは、なぜだろう。
「……いいのさ、君は大きな過ちを犯した。君が生まれ来なければ、千夏は苦しまずには済んだ。人生だって、狂わずには済んだ。青春だって謳歌したかったはずだ。それなりの幸せを掴めるはずだった。君が生まれてこなければ」
追い打ちをかけるように、僕の神髄まで責め立てた。
「伯父さん、もう、いいよ。いいんだよ。僕はここにいるから」
「じゃあ、ここにいるんだね。君は永遠に」
父さんは母さんのどこに惹かれたんだろう。小さな少女を弄ぶくらい酷い奴だった。それが僕の父さん。
「伯父さん、ごめんね。母さんは悪くないよ。悪くないんだ」
もうすぐ、夜が来る。決まり切って、敗者は野垂れ死にしない、とこの世から清算されない。
「伯父さん、もう、いいんだよ。僕はもう、いいんだ」
おーい、おーい、とあのときの幻聴が耳を無我夢中で貶した。この叫喚は銀鏡に来てからいつも聞こえる。聞こえ、聞こえてくる、森の精霊が僕らを呼んでいる。山で骸となった者たちの悲痛な叫び声が。森の中で事切れた者たちの慄きが。言葉を奪われた、死霊の恫喝が。荒ぶる鬼神と化した、太古の者たちの怒号が。
「君には忌まわしい、血が流れている。母を恨み、憎みそれだけではなく、有ろうことか、あらぬ想いを秘めた男の血が流れている。伯父さんは君を」
このまま刺され、森の中の土塊となってしまえばいい、と思った。僕から流れた血が森の底に沈んでいけばいい、と本気で信じた。 地下深く、分水嶺まで沈み、清らかな水になってしまえばいい、と血反吐を吐くまで。
「伯父さん、もういいんだよ。僕のことを憎んでいい。憎んでいいんだ」
星神楽 60 雨夜の星|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)
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