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 それはずっと、書き続けていた日記帳だった。
 小説家に憧れて、小説の一文を書き写したページや思春期にありがちな、煩悶を徒然に書き綴った深夜と握手している、ノート。

 知的な趣味とは、無縁そうなあの人がなぜ、そこまで猛り立つのか、すぐには目星が付かなった。
 お腹を痛めた子供がどことなく、文学に目覚め、透明な少年として、その詩情に自惚れて、耽溺しているのが、気に食わないだけなのか。
 何となく居たたまれなくなり、閉口するしかできなかった。
「あんた、分かっているの? お母さんの悪口を書くような子に育って。分かるの?」
 あの人の語彙の少ない会話で何となく、自分が書いた文章に腹を据えかねているのは、すぐさま想像できた。
 何だ、それだけじゃないか、と鼻息を荒げたのは、そこまでで、あの人は伯父さんが子供の頃に使っていた、学習机の前まで猛々しい足音を立てながら、僕の手を強く握った。

「あんた、高校には行かせないって言ったでしょう。うちにはそんなに金銭的な余裕がないの。分かった? 分かったら、明日から勉強なんてしないで働きなさい。いい? 分かったら返事して、今すぐお母さんのご飯を食べなさい」
 脳裏には押し寄せる、海嘯のように悲鳴が轟き、地上をノアの洪水のように、視界を水浸しにしていた。

 握られた右手はぞっとするほど、冷ややかだった。
 あの人の手には、人として通い合った血の温もりがなかった。
 この人は僕の母親なんだろうか。
 そんな言ってはならない、禁句さえも浮かんだ。

「これ以上部屋に籠って勉強でもしたら明日から学校にも行かせないから」
 違う。
 僕は間違った行いなんてしていない。
 ただひたすらに将来へ向かって、勉強していただけだ。あの人は僕の頬を平手打ちしていた。

 平手打ちされた、僕はその場の状況を飲み込めず、それこそ、文字通り、顔面蒼白になりながら、肩さえも小刻みに震えてしまい、蔑ろにされた腕を宙づりにさせるしかなかった。
 繋留された右手は、あの人の手のひらの中に合致している。
 こいつ、何を言っているんだろう? 
 違う。違う。また、いつもの勘違いだ。

「何、そんなにしょんぼりしているのよ」
 追い打ちのようにその言葉の聖剣は深々とこの胸を貫いた。
「そんなに見栄があるの? そんなにあんたにはつまらない、上昇志向があるんだ。馬鹿みたい」
 あの人から泣き顔だけは、見せてはならなかった。
「上昇志向って、あんただって高学歴の男、と必要以上に乳繰り合ったくせに」

星神楽㊽ 虹彩離陸|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)

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