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民俗音楽における「楽譜」の存在とその役割

アイルランド音楽において、曲は聴き覚えで伝えられてきました。そもそも楽譜が読めない奏者もたくさんいます。だからといって、この音楽の世界に楽譜が全く存在しなかったか、というと決してそうではありません。もし、民俗音楽の音楽家が旋律を紙に記すことも、出版された楽譜を見ることもなかったら、音楽は今よりずっと内容の乏しいものになっていたでしょう。民俗音楽においては、クラシックとはまた違った楽譜の果たした大きな役割があったのです。


民俗音楽の「楽譜」はクラシックのとは種類が違う

アイリッシュを弾いてみようと「楽譜」を取り寄せてみたけれども、どうやって弾いたらよいのか分からなかった、という経験をお持ちの方もおられるのではないでしょうか。

通常クラシックの楽譜に書かれているはずの曲のテンポやアップ、ダウン、スラーといったボウイング、装飾音、アクセントの位置など演奏上の指示が民俗音楽の「楽譜」にはほとんどないことに戸惑われたことでしょう。

民俗音楽の「楽譜」には、
このように演奏指示がほとんど記されていないのが普通
オニール『アイルランドの音楽 Music of Ireland』


このような単純な旋律を記しただけの民俗音楽の「楽譜」は、英語ではノーテーション notation、チューンズ tunes、ミュージック music、あるいは曲集という意味ではコレクション collection、メロディーズ merodies などと呼ばれ、17世紀から今日まで、最も一般的で、かつ人気を得てきた「楽譜」の種類です。


個人の音楽手帳 ~手稿譜の存在

古くから奏者の中には、記譜の知識を持つ者がいて(あるいは独自の記譜法によって)、自作の曲やレパートリーをこまめに音楽手帳に書き留めることがよく行われてきました。

スコットランド、アバディーンのバグパイプ奏者の172曲が含まれた音楽手帳 1800年代初頭
スコットランド国立博物館蔵


こうした手書きの音楽手帳は、出版を目的としたものというよりは、奏者として実用的なもので、自分のためだけでなく、時として子孫や弟子たちのために役立ちました。

こうしたいくつかは、フォークリヴァイバルの1960年以降に、教会や個人宅などから発見され、当時のレパートリーを知る貴重な資料となり、その中には出版に至ったものもあります。

楽譜の読めない弟子のために書かれた
独自の記譜法によるタブラチュア 
フィドラー、パドリック・オキーフ
アイルランド 20世紀初頭
(アイルランド伝統音楽保管庫 ITMA

ボウイングまで書かれている、上のパドリック・オキーフのタブ譜は、弟子たちの家から何百枚と見つかり、彼が住んでいたシュリーブルクア地方の奏法を解き明かすのにことに役立ったのです。


印刷物 ~広く流通した「楽譜」

クラシック音楽の分野で楽譜が盛んに出版されていた同じ頃、流行の歌やダンス(現在の民俗音楽だけでなく古楽として扱われる分野を含む)の「楽譜」も出版され、広く流通していました。

イギリスでは、巷で流行していた曲や作曲家が作った新しい旋律をまとめたジョン・プレイフォードのカントリーダンス曲集『The Dancing Master  全18版 1651~1728年』が出版され、宗教改革の下でのダンス禁止令、ペストの大流行、ロンドン大火といった厳しい時代に、人々の間で高まるダンス文化の需要に大いに応えました。

『ダンシングマスター』の挿絵。
列になって踊る男女の脇に
トレブルヴァイオリン奏者が3人見えます
(Library of Congress蔵)
『ダンシングマスター』の楽譜
シンプルな旋律の下に踊りのが解説が付いています
(The National Library of Scotland蔵)


スコットランドのものとしては、『スコッチ原曲集(多数のハイランド曲を含む) A Collection of Original Scotch Tunes (Full of Highland Humours) 1700年』がロンドンで出版されたのを皮切りに、地元スコットランドでも『スコッチリールすなわちカントリーダンス Scots Reels or Country Dances 1757年』など、1700年代には多数のフィドルの「楽譜」が出版されます。

ニール・ガウや息子のナサニエル・ガウ、ウイリアム・マーシャルといったスコットランドの誇れるフィドル奏者兼作曲家たちの『スコットランド高地特有のエアとメロディ The Air and Melodies Peculiar to the Highlands of Scotland 1815年』はスコティッシュフィドルの金字塔的な曲集です。19世紀には、J・スコット・スキナーが作った数多くの曲が出版によって流通しました。今でもスコットランドは作曲の伝統によって、特に楽譜のリテラシーが高い奏者が多いことで知られています。

これらの「楽譜」は現在までスコティッシュのレパートリーの源になったばかりでなく、アイルランドとイギリスの両方で流通しました。アイルランドの有名なリール曲のほとんどが、こうした「楽譜」に書かれたスコットランドの作曲家が作ったものに由来します。

グラスゴーで出版され、アイルランドで流通していた曲集のうちのひとつ。イングランドやスコットランドの曲がこうした「楽譜」によってアイルランドにもたらされました
『キャメロンのフィドル音楽選集
Cameron’s Selection of Violin Music 1859年』(ITMA


アイルランドからは、ダブリンで出版された『アイルランド名旋律選 A Collection of the Most Celebrated Irish Tunes 全49曲 1726年』、『カントリーダンス選集 A Choice Collection of Country Dances 1726年頃』などがあげられ、とりわけトマス・ムーアの『アイルランド曲調 Irish Melodies 1807–34年』は、イギリスやアメリカの英語圏でアイルランド風のお茶の間音楽会作品として人気を博しました。

トマス・ムーアの『アイルランド曲調』に入っている
『庭の千草The Last Rose of Summer』の
ピアノ伴奏譜が付きの楽譜
1895年再販のスタンフォード版 Library of Ireland


曲の収集家たち ~保存のためのプロジェクト

アイルランドのハープは途絶えてしまった伝統なので、ターロック・オカロラン(1670-1738年)の曲は、今日まで耳で伝えられてきたわけではありません。そもそも昔のハープ奏者は楽譜を使う習慣がなく、オカロランは盲目だったので「直筆の楽譜」も存在しません。それでは、私たちはいったいどのようにしてハープの曲を知り得ているのでしょうか。

それは、エドワード・バンディングの『古代アイルランド音楽全集 General Collection of the Ancient Irish Music 1796年、1840年』やペトリのエア集『アイルランドの古代音楽 Ancient Music of Ireland 1855年』といった「楽譜」にハープの曲が記録されていたからです。彼らは、消えゆくハープ音楽の記録・保存のために出版したのです(リンクでインターネットアーカイブに飛び、オリジナルが閲覧できます)。

他に重要なものとして、ロンドンで出版されたバグパイプ奏者オッファレルの『オッファレルの連合バグパイプのための国民的なアイルランド曲集 O'Farrell's Collection of National Irish Music for the Union Pipes 1798年』、パトリック・W・ジョイスの100曲からなるエア集『古代アイルランド音楽 Ancient Irish Music 1873年』、 アメリカで発売されたフランシス・オニールのダンス曲とエア集『アイルランドの音楽 Music of Ireland 1903年』などが挙げられます。


教則本 ~入門書としての試み

伝統的な音楽家なら、耳からであれ目からであれ、単純な旋律を与えられただけで正しいリズムとテンポで、ボウイングを当てはめ、装飾音を適宜付け、毎回繰り返しを違えて演奏できるものです。

そのような音楽の「暗黙の了解」を知らなければ、単純な旋律から生きた音楽にすることができません。それには、ダンス音楽の演奏流儀を学ぶ必要があります。

そうした書かれていない部分を教えてくれるのが教則本になります。フィドルやパイプの楽器の指南書としての教則本は、意外なことに、古くから存在しますが、私たちにとって、やはり現代に出版されたものが分かりやすいでしょう。

『フィドルが弾きたい!2022年』音楽之友社刊は、私が20年前に原著者に出会い良書と確信し翻訳出版にこぎつけたもので、アイルランドの音楽の流儀を誰でも身につけられるように工夫された教則本になります。

演奏指示が細かく書き込まれた
『フィドルが弾きたい!』の楽譜。脚注も充実!
音楽之友社HPより


以上のように、民俗音楽での「楽譜」は、音楽の普及、記録、保存という重要な役割を果たしてきました。古くから音楽の流通とコミュニケーションは、印刷物と口頭伝承の相互作用がつきもので、双方の間を繰り返し行き来してきました。曲はしばしばそうした複雑な過程を通じ、今日まで私たちの元に届けられているのです。


転載禁止 ©2024年 Tamiko
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トップ画像:『キャメロンのフィドル音楽選集 Cameron’s Selection of Violin Music 1859年』の表紙(ITMA


参考文献と参考優良サイト

J・スコット・スキナーのインターネット資料館:the Music of James Scott Skinner

Pete Cooper. Complete Irish Fiddle Player. Mel Bay. 1995.

Alan Ward. Music from Sliabh Luachra. Topic records notes.
1976.

Harry Bradshaw. Michael Coleman 1891-1945. VivaVoce booklet. 1991.

Francis O’Neill. The Dance Music of Ireland. Waltons.(1907).

Brendán Breathenach. Ceol Ronce na hÉireann 1,3 . An Gum. (1963).

ブレンダン・ブラナック(竹下英二訳)『アイルランドの民俗音楽とダンス』
全音楽譜出版社 1985年

寺本圭佑 HP: 失われたアイルランドの響きを求めて(金属弦アイリッシュ・ハープ奏者、研究者、教師、製作者)

寺本圭佑 民謡のナショナリティについての一考察 ―― “Princess Royal”の起源をめぐる英国、アイルランド間の論争を例に

福岡正太『民族音楽学におけるポピュラー音楽研究の動向 』1997

秋山 龍英 『民族音楽学の諸問題』1978 

小島美子『民俗音楽学と音楽史学』1990

James Hunter’s The Fiddle Music of Scotland, Edinburgh, 1979

Routledge and Kegan Paul, Donal O'Sullivan Carolan, The Life Times and Music of an Irish Harper, 1958

Allen Feldman & Eamonn O'Doherty, The Northern Fiddler, 1980



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