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風景描写の3つめのタイプを考えた


 風景描写には主に2つのタイプがある。
 1つは人物のこころの動きを、雨や雪や花鳥風月とあわせて表現する方法。
 2つめは人物と関係なく、風景は風景として描いて、人物は人物として描く方法。世界そのものの立体性を描くことを目指す。
 そんなの簡単に割り切れないよ、というのが大半だと思うが、一応理屈としておぼえるのも損ではないと僕は思う。

 そのうえで、実は3つ目がある。それは、他人の心理と風景をあわせて描く手法だ。

3・他人の心理=風景

 精神世界を描くタイプがこれにあたるだろう。主人公がなにかのきっかけや手段を用いて、他人の心の内に入っていき、そこでふつうは見られない奇妙なイメージに触れる。村上春樹の小説で描かれる「地下室」とか、いしいしんじの小説で描かれる異界とか、森敦の小説の庄内平野とか、最近のVRゲームも「他人であるクリエイターがつくった精神世界」とみなすなら加えていいかも知れない。
 そこに入ったら、もう他人の心の空間の内側なのである。現実ではないし、自分の常識も通用しない。
 これをどう考えるかは人によってさまざまだけれど、僕なりに一言で絞り出してみると、「自然風景までもが、他人のつくったルールに影響を受ける」ということだと思う。


例えば。


 テーブルの上に置かれた写真立てには黒塗りになった顔しか描かれていないが、部屋の主にとっては重要な人物らしい。だから、その写真立てに近づけば近づくほど部屋の壁が捲れてきて、血みどろの繊維のようなものが溢れ出てきて、「近づくな!」と壁全体から声がする。写真にうつる影はブラックホールのように、近づくほど体が重く、脚はもつれてくる……。テレビゲームだったら写真立てが対象オブジェクトとして蛍光色で表示されていたりするだろう。
 というような奇妙なルール感覚が精神世界にはありがちである。

 3つの風景描写を考えていて、ちょっと楽しかった。
 風景描写に凝り始めるとキリがないけれど、良いことも幾つかある。描写力が磨かれるとか、小説の間をとりやすくなるとか。自分の外の世界に関心が向いていくのもいいと思う。


建築について


 で、ここで建築?と思うかも知れない。
 というか、小説で言う建築ってなに?というカンジ。
 最近、建築関係の本を読んだり、建築関係のアカウントを覗かせてもらったりしているが、理由は、本来関係のない心理と風景を、うまく乳化することが建築にはできていると思うからだ。

 建築には新しい描写の可能性がある。

 立地を設定し、周辺の気候や災害によって損害を被らないよう素材を選び、構造を設計し、そこに住む人の心理を考えてミーティングを重ね、建築士が図面を描く。多くの職人や設計士がひとつの空間をプロジェクトとして共有しているのも大きい。


 例えば、家を乳化した「心理≒風景」として考えてみたら、どのように描けばいいのか?

 やっぱり心理的な面を強調するのだろうか?居住者の好きなピンク色を壁全面に塗ったとか。あんまりにも心理性を表現したデザイン性の高い物件だと、住んでいて疲れるのではないか?芸術に限界はないかも知れないが、人間の認知には限界がある。だとしたら、その疲れを小説はどう描くか?


 もし心理よりも風景の面を強くするとしたら?周囲に溶け込んだ素朴な家を目指すということだろうか?家にいるときと通勤時の落差はどうだろうか?家を出てふつうの風景に出くわしたとき、ホッとするだろうか?逆に現実性にガッカリするだろうか?いや、現実の通勤と連動しない芸術には価値があるだろうか?いやいや、現実を否定してこそ芸術かも知れない。それを小説に描くとして、どんな登場人物になるのだろうか?ほんとに興味が尽きない。

 そう考えていくと、ライフスタイルを考える建築家の眼は、そのまま新しい風景描写の可能性を拓いていく、と思う。

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