いつだって自分を縛っているのは自分自身かもしれない
仕事を辞めてある程度の時間がある今、人間は時間があればやりたいことができるというわけではないのだ、ということを痛感しているmomomiです。
時間があればやりたかったことで、今ある程度できているものもあれば、意外と時間があってもやらないこともあり。
実はそれほどやりたいことでもなかったのかもしれない、そんなふうに思ってみたり。
今日はちょっとつぶやいてみたくなった、ひとり言です。
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誰だって多かれ少なかれ、自分を制限する思いこみは持っている。
完全でなくてはならない。
ありのままの自分であってはいけない。
成長してはいけない。子どもであってはいけない。
などなど。
ドライバーとなる価値観があり、ブレーキとなる価値観がある。
ある時期ドライバーとなっていたはずの価値観が、人生のステージの変化に伴ってブレーキとなることだってある。
コンプレックスが力になることもあれば、結果的に幸せになることを阻害することだってある。
子どもの時に自分を守るために作ってきた鎧が、大人になって自分を制限してしまうことは本当によくある。
多かれ少なかれ、自分が身に着けた鎧はいつか自分で脱がないと。
そうしないと、次のところにはいけない。
すべてを持ったまま前に進むことはできないのだと気が付かなければ、私たちは前には進めない。
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役割は自分を守ってくれるものである。
母親として、会社員として、妻として、社会の一員として・・・
役割を担うことで生まれる責任感がある。
それはとても私たちに力を与えてくれるものだ。
少なくとも、私は役割を引き受けることで生まれた強さというものがすごくあるような気がする。
母親になったことで子どもを守るために決めたこと、頑張れたこと。
そして母親になったからしぜんに諦めた、たくさんのものごと。
マネージャーになったことでできるようになったこと。
仕事を本気でするなら捨てなくてはと思ったけれど、諦められなかった時間たち。
確かに私の意思で捨てたものがほとんどだ。
別に女だからとか、昔親から言われたからではきっとないはず。
そう思っていたけれど、自信がもてないものも正直なところいくつかある。
ただ、諦めたものも、諦められなかったものも、それらが今の私の幸せの基礎になっていることは確かなのだ。
だからきっと間違ってはいなかったんだろう。
でも、本当は私は捨てたくなかったのかもしれない。
そんな風に思うときもある。
役割意識が強すぎると個としてのエネルギーは失われていく。
気が付けばがまんしすぎてしんどくなっていたのは、結局自分自身でがんじがらめに『こうでなくては』と思い込んでいたんだろう。
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辞めて自由な時間が増えた今、確かに私は仕事が好きだったんだなと思うときがあります。
当時はしんどすぎてよくわからなかったけれど。
そしてそれと同時に、無意識に私が諦めてきたものと意識的に捨てたものがたくさんあり、そして、それが本当は自分にとっては大切だったものも意外と多かったという事実に気づくのです。
気づいて取り戻していける今がきっと幸せ。
失ったことで生まれた豊かな時間。
誰だって、気づくのはいつも心地いいこととは限らない。
感動できることは素晴らしいけれど、私が変わるきっかけになったことは大概が痛みを伴うもの。
現実を直視して初めて気づくもの。
だから、現実を見るのは今でも怖い。
私は本当に怖いのが苦手だから、今でも気づかなければいいのにな、と思うときがあります。
でも、怖いことよりも、今に居続けて変わらない自分が本当に嫌なのだと。
それが怖いことを上回るのだと思っています。ほんの少しだけ。
良いことばかりではない。
これまでいろんなことがあっても今の私があるのは、痛みを引き受けてきたから。
だからいつもぼろぼろだけれど、たぶん何とかなってきた。
大変だから、あまり人には勧められないけれど。
お母さんだから、今仕事をしていないから、もう40代だからって自分を縛るのはやめよう、そんな風に思っています。
いつまでたってもぼろぼろで完成しないじぶんを、ゆっくり大事に育てていこう。
人と違ってもいいじゃないか。
そんな風に思っていることをここに残しておきたくなりました。
読んでくださってありがとうございます。
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