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耳が聞こえない、私の大切なともだちから学んだこと

もうすぐGW、ということは友人のお誕生日が近い。

でも思い出したからと言っても、気が向けばLineかメッセンジャーでおめでとう!を伝えるくらいで多分何もしない。
お互いママになってからは、なんせ全然時間がない。

双方に子どもが生まれる前は、一緒に旅行に行き、ご飯を食べたりした。
ちょうどお互い結婚が気になるお年頃に仲良くなったお友だちで、職場が一緒だったこともある。

だから仕事の話もすれば、恋バナもしたし、ママになってからは子どもの話もするようになった。女の人というのは何かしら共通項がないと友人でい続けるというのはなかなか難しいので、大して友達が多くない私には貴重な友人である。

***

一見全然わからないが、実は彼女はほとんど耳が聞こえていない。

生まれつきなもので手帳も持っているが、ずっと健常人として生活してきているので手話は使えないし、いたって普通である。
騒がしいお店で話すのはちょっと大変なこと以外は、特に友人として問題はない。

一方で、私は彼女といることで学んだことはたくさんある。
私が彼女から学んだことを何となく文字に起こしてみたくなったので、そのことについて今日は書いてみたいと思う。


周りの人の思い込みが少なければ、○○だから~ができない、という思い込みは形成されない

もともとの性格もあるのだろうけど、彼女が『耳が聞こえないから~ができない』という言い方をするのをおそらく聞いたことがない。
なんなら医師から止められているのに、自転車も乗っていたし、ダイビングをしていたのを知っている。基本的にはけっこうチャレンジャーである。
というわけで、さすがに婚活の時は多少耳のことを気にしていたが、どちらかと言えば美人で明るい彼女は、案外さっくり決まった。

絶対というものではないのだろうが、彼女といるとご家族が如何に彼女を特別扱いせずに普通にかわいい娘として育ててきたんだろうなということがすごく伝わってくる。
当たり前のことかもしれないけれど、愛されて育つということはすべての土台で、可能性を開く鍵になる。

こちらが良かれと思ったことも、本人にとっては迷惑なこともままある

彼女と一緒にいると、何となく私は『ちゃんと聞かないと』モードに入ってしまうらしく、何度か怒られたことがある。
発音が不明瞭なことがあるので、ぶつぶつ言っているときに「え、今なんか言った?」とつい聞き返してしまうのだ。

「momomiちゃんは、私のひとり言を全部聞き返してくるからうるさい」
そう怒られたことがあって、正直ええ~と思ったけれど(私も無意識にやっていた)、でも彼女にとってはその配慮いらん、と思ってイライラすることもたくさんあるんだろうなーと思う。

というわけで、あんまりこちらの良かれは押し付けないように、でも彼女が必要なことはするように(例えば、唇読んでいるのでマスクは外すとか)は気をつけている。でも、それって聞かないとわからない。
だから、直接本人に何が必要な配慮なのかを聞くことはかなり大事。

ないことが不便だ、というのは案外こちらの思い込みかもしれない

仲良くなってからしばらくたって、以前聞いてみたことがある。
「耳が聞こえないって不便じゃない?」と。

その時彼女に
「え、別にないよー。だって余計なことも聞こえないから。
っていうか自分の悪口とか全部聞こえるのって不便じゃない?」
と言われたときは、なるほど、と思った。

聞こえるのが当たり前だと思っていると、聞こえないのはさぞかし不便では?と思ってしまうのだけれど、もともとないのが当たり前だとそれによるメリットも当然あるはずなのである。

だから、ない=不便なものでもないのかもしれない。
生まれつきと途中で失うのはまた違ったりするかもしれないけれど、少なくとも『この機能がないから不便だよね』とこちらが決めつけるのはすごくおかしいんだということは分かる。

どうせ私たちだって歳をとればどっかしら悪くなったり、機能しづらくなるところなんていっぱいあるのだ。失うことを嘆いてばかりいるより、前向きに生きたほうがよっぽどいい。

多様性を生きるには、言葉によるやりとりは欠かせない

私はもともと思い込みが強い部分もあるので、相手が『こう思っているに違いない』と思ってたくさんのコミュニケーション上の失敗を重ねてきた。別にそれは相手に障がいがあろうがなかろうが関係なく、同じ女性だからわかるよね、とか、ママだからわかるよね、みたいな小さなことから文化の違いみたいな大きなものまでいろいろある。けれど、失敗するパターンはたいてい決まっている。
私の先入観が邪魔になるのだ。

もうそうなると聞いた方が早いので、「今どう思っているの?」「どうしたい?」と直接聞くことが増えたような気がする。
歳をとっておばさんになるのは、こういうとき便利である。

多様性を生きていくためには、やっぱり相手を知ろうとすることが必要になるし、知るためには言葉が必要なのだ。
そしてその時に、適切な言葉を選べるというのは必要な知性だと思う。
私は言葉を乱暴に扱ってしまうことが多いけれど、相手を知るために、もっと適切な言葉が選べるようになりたいし、言葉を大事にしたい。


読んでくださってありがとうございます。

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