「何を、どこで、誰と」から「誰と、どこで、何を」への優先順位の変化
歳をとったせいなのかもしれないけれど、だんだん自分の価値観が変わってきたことに気づく。
変わらないものはとことん変わらないのだけれど。
例えば昔は私は一人の時間がたくさんいる人だから
誰かと暮らすことは難しいだろうと思っていた。
仲の良い友達2-3人で旅行は行けても、大人数は難しいとか。
人といるより、一人でいたほうが好きなのだと思っていた。
相変わらず私が一人でいる時間が必要なのは変わらない。
でも夫との生活はもうすぐで15年になり、途中で息子が加わり、一人暮らしの時より明らかに私は楽しく過ごしている。時々は友人と家族ぐるみでグループキャンプをしたり、友人たちと旅行に行くようになった。
正直なところ社交性は上がっている気がしないけれど、昔より人と一緒にいることの楽しさみたいなものがわかってきた気がする。
一方でそういうときに自分がしんどくならないために、一人でいる時間を意識的にとることが重要なんだと思うようになった。
だから夏休みで息子が家にいる今、ときどき私は一人になりたくて散歩したり、寝室に引きこもったりしている。
子どもが遊びに出たり習い事に出かけると、ホッとしている自分に気づく。
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若いときは「何をするか」がもっと大事だったように思う。
仕事なら職種だとか、具体的に自分がどの役回りを担い何をするのか。
何をするのかわからないままその場にいるのは大の苦手だったし(これは今も苦手だけれど)、役目がないくらいならいない方がいいとまで思っていた。
でも今は少しだけ違っていて、何をするかはそこまで大事じゃなくなって、ただいればいいという役割もあるような気がする。
そこにいてくれるだけでいい、とか、ただみんなでそこで楽しく過ごすことで十分だ、そういうことの大切さに少しは気づけたような。
もちろん何をするかが全然大事じゃなくなったわけではない。
例えば今考えている仕事の話も、私が全然できそうにない仕事だったら気にもかけないだろう。
なんだかおもしろそう、そう思ったから気になったりするんだろう。
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価値観そのものというよりも、優先順位が少し変わってきた感じ。
何をするかよりも、誰といるかを優先することも増えたし
(そして一人でいることを優先することもある)
昔より”どこで”が思っていた以上に大事だな、と思うようになった。
別に家族で特別なことをしなくちゃとは思わないけれど、印象的な場所での出来事は記憶に残りやすいからその点はいいような気がする。
そしてその土地ごとの価値観と言うか、固定概念みたいなものがあるから、やっぱりときどきはどこかに出かける必要がある様に思う。
ずっと同じ場所にいると気がつけないもの、見えないものがある。
久しぶりに私の父母と息子と過ごして、このメンバーで元気で何かを楽しめることってあとどれくらい残されているのだろうかと思うと少しセンチメンタルな気持ちになった。
家族って永遠に一緒にいるような気がするけれど、実はちょっと長めのプロジェクトで、一緒にいる時期が終われば案外あっという間なんだろうな。
「誰と」「どこで」「何を」はときどき意識して選んでいこう。
読んでくださってありがとうございます。