見出し画像

死刑にいたる病に見るサイコパスの特性

死刑にいたる病の映画をネトフリで観た。
僕はこの作品が書籍の頃からかなり好きで、たびたび読み返している。
この映画も映画化の報を受けた時は主演が阿部サダヲという事もあり、劇場で観ることを楽しみにしていたのだが如何せんこの性格なので全く忘れてしまっていた。
サブスク解禁という事で久しぶりに思い出しやっと観られた次第である。
今回はこの映画と書籍の感想に絡めて登場人物を通じて殺人犯にも少し語りを広げたいと思う。

肝心なところは書かないようにするが、語っている内にポロリすることは十分にあり得るので作品のネタバレが気になる人はブラウザバックだ。
とは言えまぁいつもの語りが大半ではある。

さて本作は、櫛木理宇が手掛けたとある殺人犯とそれに取り込まれる羊にまつわる話である。
櫛木理宇はこういう人のえぐみを描くのが大変に上手く、僕は「鵜頭川村事件」なども大好きである。
作品の主人公は物語の中心となる歴史的連続殺人犯・榛村大和と、その悪魔に呼ばれ、飲み込まれていく羊、筧井雅也の二人だ。
榛村は過去にパン屋を営み、町の人たちと心地よい交流を交わす裏で男女問わず高校生23人を拷問・暴行の末に殺していたマスマーダーである。
雅也もその榛村がパン屋をしていた町の出身であり、過去には榛村と良い近所のお兄さんとして交流があった。その過去の接点を基に大学生となった今、榛村との接点を再び持つこととなる。

未読でこの文章を読んでいる人のためにざっくりとこの後の粗筋を説明すると、榛村が塀の中から雅也に連絡を取り、「24人の殺人で起訴されたが、最後の殺人だけはやっていない。その証明をしてほしい」と頼みこむところから話は始まる。
雅也は積み重なる日々の退屈や鬱憤から榛村の依頼を受けるが、そうして事件に向き合い、調べていく内にどんどんと事件にのめり込んでいく。
調査の過程で自身のルーツに触れる事実を発見したり、榛村との意外な接点を知る事によって二人の関係性は次第に深くなり……という話だ。
最後にどんでん返し的なものはあるものの、これから語る上ではあまり重要ではないしこの話の旨味はそこでないところにもあると思っているので敢えてここでは書かない。

ではどこにこの話の旨味があるかと言えば榛村のカリスマ性に端を発する異常性だろう。
いわゆるサイコパス、共感性の欠如したシリアルキラーというある種アイコン的なキャラクターでありながらその人たらし的な面の描写が非常に上手い。
多くの人は人と触れ合う上で意識下無意識下を問わずに多くの「望み」を持っている。
冗談を言ったら笑ってほしいし、自慢をしたら感心してほしい。誰もに心当たりのある当たり前の感情と言えるだろう。
榛村のような人間(厳密な意味は違うが通りを優先して知能が高く共感性の低い人間を以下サイコパスと呼称する)はこれを察知する能力が異常に高い。
実のところ、人は他人の内面の能力的な把握をほとんど正確に出来ない。
人が人を見て優秀だと感じるのは、アウトプットの巧拙がその割合を大きく占めている。
人と人はどうしたってアウトプットをお互いに行わなければ交流が出来ないので当たり前とも言えるが、とにかくアウトプットに秀でている人は実際の能力よりも余計に優秀と感じられることが往々にしてある。
はきはきと喋る人とぼそぼそと喋る同程度の能力の人間がいたら十中八九前者の方が優秀と判断される。何なら前者の方が能力的に多少劣っていたとしても結果は同じだろう。
それくらいに人間というのはいい加減な物差しの上で生きている。

サイコパスはそういった相手の認知に潜り込むのが非常に得意だ。実際に知能が高い上にアウトプットも上手いのだから彼らにとってはそんなことは朝飯前と言える。
愛想がよく、雑談でも話は弾み、自分も相手も自然に笑顔になる。そんな場面をいとも簡単に作ることが出来る。人たらしというやつだ。
それがなぜかと言えば、前述のように「相手が望む答え」を察することが出来るからである。
ただ単に明るくはきはきという訳ではない。静かな雰囲気を好む人の前では自分も静かになり、積極的な接触を求めていない人の前では無暗に踏み込まない。そういう距離感を掴むことが息を吸うようにできるのだ。
目の前の人はどういう感情で何を自分に求めているのか。そういうことが風景のようにごく当たり前に見えてそのためのアウトプットもほとんど意識せずに行える。
そして常にサイコパスは自分を客観的に見る目を持っている。いついかなる時も自分の主観とは別に自分を見る目を持っているのである。
自分が何気なくする仕草が傍から見てどう見えてどういう効果を生むのか、ある程度を察してそれらを半分無意識で使いこなす。
悔しい時や悲しい時に涙を流すこともあるだろう。その涙を流す時だって彼らには外からの見え方がきちんと認識できている。
悲しくない訳ではない。悲しいことに嘘はないがそれだけで心が占められている訳でもない、というだけだ。
相手の望むシグナルを察して客観的な目で校正した言葉や仕草で相手の懐に入り込む、というのがサイコパスの常套手段だ。
これに関しては映画の作中で榛村も言っていたが「そうすることでしか人と交流する術を知らない」のだろう。

榛村はそういった手練手管を雅也に対して発揮する。
高校生から急落に成績が下落してかつて見下していた人間たちと同じ環境にいる雅也の鬱屈を榛村は巧みに見抜き、その自尊心を刺激しながら興味を持つように話を演出する。

人間を動かすのに一番強烈な動機付けは「能動」というものに集約される。
人は自分で見つけたものや決めたものには必要以上に固執する。人からこれをやりなさいと言われるよりも自分でやりたいと思ったことの方に何倍も一生懸命になれる。
人から提示されれば明らかに嘘とわかるような情報でも、自分が見つけたと思った結果いとも簡単に信じ込むようなことだって珍しいことではない。
世に蔓延る陰謀論や似非科学の集団にもそういった手法が取り入れられている。
世の中の欺瞞に騙されずによくこの情報を見つけられました!と讃えられれば自分が大衆とは違う特別な人間に慣れたという喜びを覆してまで間違いを認めることは非常に困難だ。
だから人を騙そうと思ったら「意図した情報に自分からたどり着く」ように演出してやるのが一番確実だ。宝の道は指し示してはいけない。宝の地図を目の前にさり気なくうっかり落としてやるべきなのだ。

この手法に雅也は絡めとられ、「自分から」事件にのめりこんでいく。榛村に言われたからではない。自分が事件の真相を突き止めよう、突き止められると思っているからやるのである。

概ね創作の場合、頭が良く優秀な人間を描くのは非常に難しい
当然作者はそういった人間を説得力を持って動かすだけの頭のスペースを持っていなければならず、そのスペースがないと天才はただの社会不適合なキャラクターに成り下がってしまう。
この点がこの作品は素晴らしい。榛村に操られる雅也のディテールも、雅也を操る榛村のディテールにも納得できる説得力がある。
榛村の人を動かす特性はまだある。

人間は生きるから死ぬまで、常に他者に認められたいという欲求を抱えている生き物だ。
社会の中で生まれて社会の中で死んでいく人間という種族である以上その本能から逃れることはほぼ不可能と言える。
社会から必要とされれば安心できるし、自分がいるから成り立っているという充足感は何物にも代え難い。
サイコパスはこういうナイーブなウィークポイントも的確に射貫く
雅也は中学までのエリート街道から転がり落ちていわゆる底辺大学に通っている。楽しんで通っているならまだしも雅也からしたら今キャンバスですれ違うのはかつて別世界の人種として見下してきた人間なのである。歪んだプライドを持つ人間がこの環境でより歪に捻じ曲がるのは当然と言えるだろう。
そういった心の隙間を榛村は逃がさない。どこにいても居場所がないと感じている雅也を「君がいて良かった」「君の前でだけ僕は普通になれる」「君はやっぱり優秀だよ」と甘い言葉で浸し続ける。
初めこそ圧され気味だった雅也も、その言葉を受けて榛村の期待に応えたい、と自主的に調査を行い始めるようになる。

ありとあらゆる手を使って榛村は雅也を絡め取り、操り、引きずり込む。
自尊心を刺激され、承認欲求を擽られ、自分が気付いて進めるように道が舗装されている。自分で考えて逃れろというのが無理な話である。
塀の中の弱者という隠れ蓑を持ちながら圧倒的な強者である榛村という存在が、雅也を通じて巧みに描かれている。

最後に、映画を見て特に感心したポイントがある。
映画はそのストーリーの構成上拘置所の面会室が頻繁に登場するのだが、そこの描写が非常に上手いのだ。
画面に榛村が映る時、アクリルの向こうにいる雅也の顔は表情を映す目線くらいしか見えない。しかし雅也が画面に映る時だけは榛村がまるで雅也に憑依しているかのように二重に映る
アクリルの反射という現象を通じて操るもの、操られるものの非対称性を表現している。僕はこの表現が非常に気にいった。
2時間に収める都合上端折られている箇所があったりいささか心理の移り変わりが急なところもあったものの、概ね作品のテイストは活かされているように感じた。
映画からでも楽しめるとは思うが、それはそれとしてそこまで観たら是非原作も読んでもらいたいと思う。

今回はいつか書こう書こうと思っていたサイコパスについての言説が書けて満足だ。
途中のサイコパスの特徴は少しだけ自分をモデルに多少決めつけで書いている部分もある。だから実際の榛村とは異なる部分も多いだろう。僕は殺人者ではないから。
僕自身共感性はほぼないと思っている(人と人が共感できることをまず信じていない)ので、作中で描かれる榛村の行動にはニヤリと来ることが多かった。

是非読んでみよう、と書きたいところだがネタバレバリアを張っているので未読のままここまで読み進めた奇特な読者諸兄は少ないかもしれない。その数少ないあなたたちには是非ともこの作品を取り入れてほしいと願う。僕の考察よりも面白いことは間違いない。
読んだ人、観た人は是非榛村に対しての気持ちを教えてほしい。僕でない人の眼で見たら榛村がどう映るのか、非常に興味がある。
僕自身近いうちに小説も再読しそうである。

以上、リコでした。


この記事が参加している募集

読書感想文

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?