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「『共感できない』を共感したい」という病

こんにちは。フェミニスト・トーキョーです。

今回は、SNSでたびたび巻き起こる「炎上」を眺めていて、それらのほとんどが瞬間的でヒステリックな怒りである点について、
「この長続きしない憤りは、いったいどんな衝動から生まれるのか?」
について考えてみました。


長続きしない怒りの例

先日、とあるCERO-DのゲームがSwitchで発売されるということについて、ジェンダークレーマーの方々から非難の声が上がりました。

が、湧き上がっていたのは割と一瞬で、開発元が「キャラクター名などの変更を行なうので発売を延期する」という発表に合わせて、「悪質とみなされるSNSへの投稿、拡散等につきましては、法的措置を進めております」というツイートがなされた途端に、ジェンダークレーマーの方々は途端に静かになってしまいました。

そして、販売の再開が決定し、ひとまずはSteamでの配信が開始されても、相変わらずクレームは鳴りをひそめたままになっていました。
批判の中には「マッサージ店で実際に性的被害に逢った人もいるのだ!」という、事実に基づいた非難をしていた人もいたにも関わらず、です。

中には、こうした炎上を防げないのは企業におけるリスクマネジメントの怠慢である、という意見もありましたが、私は「こんなものはリスクとすら呼べない」と考えて、そこそこの賛同もいただくことができました。

考察すると、ゲームそのものがどうこうというよりも、
「子供のおもちゃであるゲーム機でこんなものが遊べるのは許せない!」
に共感が集まった結果として、
「任天堂を許すな!」
と叫びたかったのだろうな、と。

配信先は前述のとおりSwitchだけでなくSteamもあるのですが、そちらは全然叩かれていないので、そもそもSteamが何なのか知らないという可能性も大きいですけれど、それより何より、

「任天堂という大企業を『叩いてもよい』という共感が集まった」

が一番だったのでは、と思っています。


共感できないものへの嫌悪

ゲームの件は一例として置いておくとして、今回このnoteを書こうと思ったきっかけは、私のフォロワーさんのこんなツイートでした。

私はいつもこれを「現実と創作の区別がつかない人」と呼んでいましたが、ふと気になったのは、そうした方々も別に創作を全く視聴しないわけではないのですよね。

ただ、「自分が共感できないキャラクターへの嫌悪」が、異常なまでに強い人がいるのです。

古い話で恐縮ですが、裕木奈江さんという女優さんが、90年代のTVドラマで悪女の役を演じたあと、ドラマの演出家や脚本家ではなく、裕木さん自身がバッシングを受けるという出来事がありました。

1992年放送のフジテレビ系スペシャルドラマ『北の国から'92巣立ち』では黒板純(吉岡秀隆)の恋人・松田タマコ役を演じて、純の子を妊娠し中絶するという衝撃的な内容で脚光を浴びる。
さらに、翌1993年放送の日本テレビ系連続ドラマ『ポケベルが鳴らなくて』では友人の父(緒形拳)と不倫に陥り家庭を壊してしまう役を演じて社会現象を巻き起こし、確かな演技力に定評を得る。一方で、女性から共感を得られない役柄を自然体に演じたことにより、ドラマ制作をめぐるトラブルを契機に演じた裕木自身が「ぶりっ子」「嫌いな女優No.1」などとして女性誌から“女性の敵”であるかのような激しいバッシングを受けることとなる。

Wikipediaより「裕木奈江」から抜粋

SNSが存在しなかった時代でも、このように「自分が共感できないものへの嫌悪」がエスカレートして炎上状態になる、ということは発生していました。


『共感できない』という気持ちの共感を求める、という悪夢

共感、というと、どうしても私はこの「女性の共感」に関する話を思い出してしまうのですが……

話を女性に限定してしまうのもどうかとは思いつつなのですが、小中学校のグルーピングの頃から結婚して以後のママ友時代まで、常に共感を求められる環境で過ごしてきた人たちの中には、逆に

「自分が共感できないもの」

に対して、無意識のうちに神経を尖らせていて、なおかつそれを見つけた時に、

「自分がそれに共感できないという気持ちを、誰かと共有したい」

という、負のエネルギーもここに極まれり、みたいなものをSNSなどでぶちまけて、それに共感してしまった人たちと一緒に、

「私がどれだけ共感できないか分かっているのか!」
「なんの、私だってこれくらい共感できないぞ!」
「そうだそうだ!」

と、共感できないことを共感しあうことでスッキリするみたいなイベントが開催されてしまうのですよね。

これがたびたび発生する、「長続きしないプチ炎上」の正体でもあるかなと。

反論されると一生懸命に理屈をつけたりもしますが、もともと別に固い意志も主張もあるわけではないので、理論立ても脆く、適当に雲散霧消してしまうのがいつものパターンで。


解決方法(いつもと同じですが)

「現実と創作の区別がつかない」には幾つか理由があると思うのですが、ここまで書いてきた通り、今回は一つの新説として、

「自分の感覚で共感できないものを、どうしても放っておくことができない人がいる」

ということでは?と考えました。

そしてタイトルに書いた通り、私はこれを心の病のようなものではと思っています。

「共感」はコミュニケーションにおいて大事なものですが、「共感を強要する」あるいは「共感を強要される」環境に身を置きすぎると、何か新しい物事に接した時に、まず「これは共感できる/共感できない」の視点で見るのが染みついてしまうのではないでしょうか。

それでイライラするのは、その人自身が一番損をしています。
個人的に、喜怒哀楽の中で最もエネルギーを使うのは「怒」だと思っており、何かを見るにつけていちいち怒りを募らせていたら、心が擦り減るばかりです。

ですから解決方法は、「共感できないものなど放っておこう」です。
いわゆるスルースキルというやつです。

そもそも、あなたが「共感できないもの」は、どこかの誰かが「共感できるもの」であるからこの世に存在しているわけで、あなたがいくら「共感できない!共感できない!」と騒いだところで、何かが変わる可能性は非常に低いです。

「共感できないものについて共感する」などという意味の無いことにエネルギーを費やさずに、「心から共感できるもの」だけを探しましょう。

この世には、楽しいものや面白いものが、もっとたくさんあるはずです。
人生を無駄遣いするのはやめましょう。

(了)


最後までご精読いただき、誠にありがとうございました。

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