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あらためて自己紹介。〜石坂杏子編〜※2024年4月18日更新

【はじめに】

こんにちは☀️石坂杏子です。

そういえばnoteでは自分のことやfatrripmのことをちゃんと書いていませんでした…なので改めて自己紹介をしたいと思います!

今回は続きで、中身である石坂杏子(いしざかきょうこ)編です。

①私の生い立ち。

1995年、長野県上田市生まれ。
「杏子」の名前の由来はいろいろありますが、一つ目は6月で杏の季節に生まれたから、二つ目は日本を代表する女優「江波杏子」さんから取ったそうです。(本名ではないらしい。)そして三つ目は「杏のように薬のような人であってほしい。」と。(詳しくはこちら)これは最近聞いた話だけれど、今の人生の目標になっています。サムネイルは杏の花です。

5歳ぐらいまでうまく言葉がしゃべれず、伝え方が大泣きや噛みつくなど発達が遅かったそうです。運動も大の苦手で、写真を見ると運動会も先生と一緒に平均台などやっていました。
この時から表現することは好きで、絵を描いたり、字を書いたり、大好きなくまのぬいぐるみでごっこ遊びをしていました。年長では、紙芝居を描いてクラスのみんなで演劇を作ったのが一番の思い出です。今思えばここから始まっているんだなと。
保育園時代は先生と友達に恵まれ、恩師と呼べる言葉の先生に出会えました。今の私があるのはこの時があったからだと、自分を語るには欠かせない時代です。

小学校時代。小学1年生の冬に、姉が出演していた地元の子ども劇団(上田演劇塾)の舞台を観たのがきっかけで演劇を始めることに。小学2年生の春から始めましたが、いつも怒られてばかり…怒られては泣きの繰り返し…それでも続けていたのは、お芝居することを楽しかったんだと思います。気づけば中学3年生まで子ども劇団に在籍していました。学校では、子ども劇団で歌が楽しいと思えたので合唱部にいました。カラオケは苦手だけど合唱はとても好き。(パートは主にアルト)

中学生時代。1年生の頃に初めて海外に行きました。モンゴルです。子ども劇団のイベントでモンゴルの子どもたちとの交流を目的でした。馬に乗ったり、ヤギのミルク飲んだり、白夜のなか散歩したり、初めてのことだらけ。モンゴルの子どもたちと一緒に歌えたのが楽しくて、この時に演劇や歌が国を超えるものだと実感しました。2〜3年生も演劇漬け。一応部活は美術部でした(好き勝手に絵を描いていただけ…)

高校時代。まだ演劇続けてみようと思って演劇部へ(私の高校はなぜか部活のことを”班”と呼びます。)中学までやっていた演劇とは違って、演じるのも裏方も一苦労…。これが高校演劇なのかと圧倒されました。この頃の私は甘ったれで(今も)先輩後輩同期に迷惑かけてばかりできっと呆れられていたと思います…それでも演劇は好きでその想いは切らさないようにがむしゃらに演劇に向かっていました。

大学受験。「まだ演劇を勉強したいな。」と思って演劇を学べる大学を探していてもなかなかピンと来なくて志望校を悩んでいた時に、友達に「多摩美に新しい演劇の学科できるらしいよ。」と教えてもらいました。この時に「一期生ってこと!楽しそう!」という単純な理由で多摩美術大学を受けることにしました。(既にオープンキャンパスも終わっており、見学にも行かなかったので親にはびっくりされました。)でもそんな思いだけで行けるほど甘くはなく、一発では通れない門でした。他の大学は1つ受かっていたからもうそこかなと諦めかけていた時に祖父が「もう少し待ちなさい。」と言ってくれたので待っていたら合格の通知をもらえました。今思うと運命と思うし、祖父の力を感じました。そして、多摩美術大学演劇舞踊デザイン学科へ入学。

大学時代。知らない世界が広がっていて、良い面も悪い面も、全部が新鮮でした。1年生の時は高校演劇の謎の自信がまだ残っていて、ものの見事に自信は折られていきました。2年生の時は、演じることが何やっても上手くいかずある授業では「君このままじゃダメだよ。」と斬られ、本気で演劇辞めようかと考えていました。だから大学1〜2年生はスタッフをやっていました。スタッフをやっていたおかげで公演の過程やスタッフさんのありがたさが分かったので今となってはやっていて良かったと思いますが、当時はスタッフばっかり…と悩んでいました。そして、3年生。今のfatrripmに繋がる出会いがありました。3〜4年生は今の自分に繋がる出会いが多かったです。これはfatrripm編に書いてあります。卒業公演も終わり、大学を卒業しました。

卒業後はfatrripmを中心に東京で演劇を続けていました。なんとなくこの時から「いつまで東京にいるのかな」「このままの演劇のやり方でいいのかな」と思っていた矢先で、コロナ禍へ。世界は一変して閉ざされていく。会いたい人に会えなくなることが一番の苦痛でした。そんな中で地方での演劇が広がっていることを知り、「今はどこからでも演劇ができる。やりたいことのためにも、思い切って移住しよう!」と決めました。最初はUターンは考えていなかったけれど、会いたい人を考えた時にUターンしようと決めました。

2021年に上田市にUターン移住。移住してからはご縁もあり、アジア3カ国の演劇交流事業や長野のAIR事業などの文化事業のアシスタントスタッフ、子どもの居場所づくり「うえだイロイロ倶楽部」のアシスタントファシリテーターなどいろいろな演劇、表現のあり方を肌で感じました。
2023年には念願の地元での公演を行いました。大切な人たちへの恩返しにもなった公演でした。そして、ここからまた歩いていくんだと、強い決心しました。

最新の石坂は以上です。

②私という人。

私という人は、良い意味でも悪い意味でも『猪突猛進』
「こうと決めたらこう進む!」「嫌なものは嫌!」とにかくまっすぐマイペース。真面目と言われます。最近はこの真面目さも私かもと思っています。
目立ちたいことが好きで、小学校は副会長やったり、中高も生徒会に入っていました(ちなみに緑化委員会)。よく変わっていると言われます。
しかし自信はなく、不器用で迷子になりがち…。根がネガティブだからすぐひとり反省会を開くし、はっきりとは言えない。熱しやすく冷めやすいという厄介な性格。計画性もない。(マイナスなことしか言ってない!)
人にはポジティブに言えるけど、自分のことになると言えない難しさがあります。
「人に恵まれている」という運はとても強いです。出会った人たちに恩返しできるように生きていきたいと強く思っています。

③やりたいこと。

演劇に関しては次の④今後のところとfatrripm編で書いているので、演劇以外でやってみたいことを。

◎実際に畑を耕す。
今はまだ自分の畑を持っておらず、祖父母の畑を手伝っているぐらいです。「畑耕してから物を言いなさい!」とツッコミが聞こえてきます…
祖父母からたくさん教わって、自分の畑を耕し、育てた野菜を頬張りたい。

◎アトリエをつくる。
私は「アトリエ」という言葉が大好きです。尊敬する方々のアトリエを見ると、”世界”だと思うのです。私も世界をつくってみたい!と最近では「アトリエをつくる」ことを目標にしています。 

◎キッチンカー
キッチンカーへの憧れは、深津絵里さんが出演していた某パンのCM。
あのCMを見る度に「キッチンカーやりたい!」と強く思っていました。
人生のうちに一回はやりたい…そのためには食と運転頑張らなければ…!    

◎フィンランドに行く。
なぜ行きたいかというと、ムーミンを生み出した作家トーベ・ヤンソンさんの出生地。フィンランド文化に一度でいいから触れてみたい。
もうそろそろ行けるかな…

◎会いたい人には会う。
簡単そうで実は簡単ではない。コロナ禍になってからもっと難しくなってしまった。友達や祖父母はもちろん、好きな歌手・俳優(いわゆる推し)には会っておく。この先何があるかわからないから後悔しないように。

④今後。

大きくは『”場”をひらく人』でいることです。fatrripmのHPで言っているように「自分の創る作品が、心の拠り所になる”はたけ”(場)でありたい。そんな”はたけ”を届けるために旅を続けている。」私は『はたけ(場)をひらける旅人。』でありたいです。

そのために修行中で、とてもマイペースに進んでいます。
私らしく表現を探究していきます。

【さいごに】

ざっくりと、石坂杏子編でした。
こんなに自分のこと書くの初めてなので、振り返れて整理できました。
不思議と28年間の短さを感じました。「全然まだ生きてないじゃん!もっと生きたい!」と前向きになれました。
今後付け足しあれば足していきます。

ではでは🙌また次回。



















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