Official髭男dism ―偶然性の戯れるこの世界を歌う―


末尾の注※もご覧ください

私の好きなOfficial髭男dism

はなはだ私的な話で恐縮なのですが,私は歌の歌詞を味わうことが趣味のようなもので,この直近100年くらいの範囲で,主に日本語の歌を日々聴いています.最近のもので一番好きなのは,Official髭男dism(以下髭男と呼称させてください)の曲です.といってもこの2-3年程度のファンで,ライブにも行ったこともなければCDも買ったことのない俄か者です.何年も本気でファンをしている方に怒られはしないかと恐ろしいのですが,今日は私が髭男のなにが面白いと感じているのかを簡単に書いてみようと思います.

彼らの曲で私が好きなものは次の通りです.『異端なスター』(2017年),『ノーダウト』(2018年),『Universe』(2021年),『ミックスナッツ』(2022年),『Chessboard』(2023年),『ホワイトノイズ』(2023年).公式ホームページによると,2015年にデビューされておられるので,初期の曲はまだ聴くことができていないことになります.

私がこれらの曲を聴いていて心動かされるのは,『異端なスター』や『ノーダウト』の歌詞の中にある反骨の精神に魅せられているところもあるのですが,今日この文章で語りたいのは世界の「偶然性」に対する彼らの歌詞の率直な描写についてです.

『Chessboard』に現れたる偶然性

偶然とは,私たち自身の意志によらざる物事のめぐりあわせそのもの,あるいは原因を指します.読者の皆様もそうかと思いますが,私たちの人生には生まれること,生きることの各所において,自身が選んだのかわからない偶然性が作用します.この偶然性に対する描写が一番私にとって明らかな曲は,『Chessboard』です.「チェスボードのようなこの世界に,私たちはルールもなきまま生まれてきた」という歌詞でこの曲は始まります.はじめは目指すべき場所も,進むことのできる道もわからない私たちの人生,それでも進む中で「猫じゃらし」が生まれ育ってゆく,と語られます.

若干話が横道に逸れますが,猫じゃらしという言葉にはとても彼ららしいユーモアを感じます(猫じゃらしはふわふわと風に揺れて,存在感はありますがどこかかわいらしいですね.猫や人間を楽しまる存在でもあります).この猫じゃらしはいわば歌い手の生きた証,それも歌い手以外の他者へ緩やかに影響を与えるような生きた証の象徴でしょうか.

目指すべき道もわからなかった歌い手ですが,そのうちに行ける場所,いけない場所,帰るべき場所ができてゆきます.その中で大切な人との出会いや別れがあるのでしょう.曲の終盤で,「チェスボードのようなこの世界で,いつかあなたのことを見失う日がきたとしても,果てしない盤上でまた会えるかな?」と歌い手は述べます.まさに生きていることの偶然性を驚き,畏怖の念を抱きつつもそれを味わっている人間がそこに描かれています.

他の曲の歌詞を読んでみると,『ミックスナッツ』はたまたまこの世になじまない存在として生まれてきた者が同じ境遇の者と出会い,ともに生きようとする歌です.『ホワイトノイズ』はある試練に翻弄される歌い手が「運命に殴られても痛くなどない」と強がりながら戦う歌です.いずれも歌い手は自身が選んだわけではない運命に動かされながらも,それを味わいながら,抗いながら生きてゆきます.

上記のいずれの歌の中でも(私が聴く限り)髭男の曲は「偶然性に満ちたこの世界に生まれた歌い手が,それに喜び,悲しみながらも自らの意志によって生きてゆこうと試みる」姿が描かれています.

偶然性と私たち

やや話が飛躍しますが,私はこの世界の偶然性に対する髭男の率直な歌詞こそが,彼らがこれほどに多くの人々から支持される原因のひとつなのではないでしょうか.逆説的ですが,私は現代の社会が世界の偶然性についてあまり重視しない,もっと言えば,軽視する社会であるがゆえに,髭男の率直な歌詞がうけているのではないかと思うのです.

現代の社会の中でひろく受け入れられている考え方として,「自身の人生は(ある程度)自身の意志によってどのような人生にするかを選び,設計することができる」という考え方があります.これは身近には義務教育の中で行われる進路選択のときにも前提とされている考え方ですし,近代的な法律のなかで仮定されている人間モデル(ヒトは自身の行為を選択し,選択できるがゆえに責任をとることができる)にも現れているのではないでしょうか.

このような考え方と工学的発想のどちらが先に生まれたものなのか,私には勉強不足でまだわからないのですが,私の専門である機械工学は,このような偶然性よりも選択と責任を強調する動向に,この数百年間を通してよくも悪くも手を貸してきたと思います.そもそも工学とは本来的に偶然にしか起きない物理現象を,繰り返し再現性をもって生み出すことで人間にとって有用な仕事を引き出す方法を研究する分野です.そして工学は様々な学問と連携し,私たちの身の回りの環境を構造化することを通して生活の中に浸透してゆきました.私たちの生活している住居や都市は,偶然に発生する現象をなるべく少なくし,私たちが予測可能で住みやすい環境を埋め込んだ人工的な世界です.それは例えばスイッチを押せば所望の仕事が行われる機械が身の回りにあり,所望の仕事が行われないとき,故障した,と分類されるような世界です.このような世界に生まれたときから浸った現代人が,先述のような人間の意志と設計能力を強調する考え方を持つことに不思議はありません.

しかしながらそのような構造化され,スイッチを押せば所望の仕事が得られるような世界にあっても,私たちは偶然性から逃れることはできない.
その偶然はあるときには事故という現象として私たちを突如襲います.あるいは人との出会いや別れは私たちの好きにできるところではない.そもそも人がいかなる環境に生まれるかということも選択の余地のないことです.

表向きの社会システムが人間の意志を強調し,それに対して人間は責任を取ることができるのだとする一方,人間の根源的な偶然性は消えてなくなりはしない.私たちがそのことを自覚するとき,生きることに不安を覚えてしまうのではないでしょうか

この世界に生きる私たちへのエール

話が髭男から逸れてしまいました.髭男の曲が私たちの心に触れる原因の一つは,私たちが普段の人工的な環境での生活の中でつい忘れがちですが,じつは心の底では気づいている世界の偶然性を,率直に歌ってくれるからではないでしょうか.人間の生において偶然性がなくならない以上,それに目をつむって生活をするよりも,受け入れて歌う態度のほうが,私たちにとって生のあじわいを味わっている,率直で崇高な態度のように,私には思えます.そしてその歌を聴くとき,世界の真実の側面にふれた心地となり,私たちは感動するのです.

これまで私なりに,髭男の曲の一部について,「偶然性」をテーマに書いてきました.ここで一つだけ付記しておきたいことがあるのですが,私は決して人間は偶然性のあふれる世界のなかで水に揺蕩う花のように,あっちへフラフラ,こっちへフラフラと人生を歩めばよいと考えているわけではありません.人間は自身の意志をもって人生を切り開こうとする.しかしながら,抗えない運命や運の力によって人生は左右されることもある.その中でもなおも意志をもって生きようと試みることに,人間のすばらしさがあると考えています.(これは私がソフォクレスの『オイディプス王』におけるオイディプスの生き方に感動する人間だということも影響しているのでしょう)

いちファンとして,どうかこれからも,お体をいたわりながらも,私たちにたくさんの歌を聞かせてほしいと思います.その曲を聴くことをとおして,私たちが「ただ流れてゆく」(『Universe』)この世界の中にあって生きることを,より深く味わうことが,これからもできたらと願います.


※1 「偶然性の戯れる」という言い回しは,『オイディプス王』に関する名著『アポロンの光と闇のもとに: ギリシア悲劇『オイディプス王』解釈』(川島重成 著,三陸書房,2004年)にて私が強い印象を受けた言い回しです.この本は大変興味深いのですが,途中までしか読んでいません.すみません….

※2 法律のことについて触れていますが,私は法律の専門家ではないので,あくまで私が勉強した限りでの所感です

※3 上記の文章は私の一個人の見解です.所属機関や研究室の見解ではないです.

※4 この文章は私がとくに何も参照せずに記しました.何か問題があれば修正しますのでご連絡ください.

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