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#28 末期癌の祖父 見舞い日記4

受けた愛

偉そうにも「受けた愛」について書きたい。


最後の会話

祖父が眠りにつきました。
亡くなってはいません。しかし起きることはほとんどありません。

このまま体力が尽きるのを待つのです。
最後に私と交わした言葉は

「またね」
「おう、ありがとう」

でした。


死ぬ前の元気

野球経験者なら聞いたことがあるかもしれない。
「三振前の大ファール」
ポール際までの大きなファールを打った直後に三振する。というもの。
実際にこの目で何度も見てきた。
それが人生でもおきる。
死ぬ前に一度とても元気になる。
それはモルヒネ(麻薬)の効果もあるかもしれない。

祖父に関してはそれが2日前である。
私が病院に行ったタイミングで体調が少し回復した日。
午前中はいつにもまして苦しんでおり祖母も心配したほどだった。

少し遅れてきた母、祖母、祖父、私の4人で思い出話をしていた。
大抵、この手のことは母から始まる。

「本当によういろんなところに連れて行ってもらいましたね」

祖父にとっては私が初めての孫だった。
正確に言えば、初めてではないがややこいので記述しない。
そして、今入院している祖父は父方である。
初孫にじいちゃんはメロメロであった。自覚がある。
もちろん、私に続く弟に、父の兄が結婚した相手の連れ子も。
血が繋がっていないなど関係なかった。それは私もしかり、家族全員。
私が記憶していない年齢から旅行にたくさん連れて行ってもらったらしい。
そして、祖父母と同棲していた一時期は祖父が毎日お見上げを買ってきていた。
話は盛っていない。本当に毎日、お菓子かおもちゃを買ってきた。らしい。
うっすらと私も記憶しているのは祖父が帰宅すると走って玄関まで出迎えて今日はなにを買ってきたか確認していた気がする。

「いっつも何か買ってきてありゃ良くないって言いよったんじゃけどね」

と祖母は祖父の甘やかし具合に呆れていた。
電動の列車が最も記憶に残る。それは母も同じだった。

「青い列車とかありましたねぇ〜」

祖父はかすかに微笑む。しかしすぐに訂正する。

「ありゃ赤で漕ぐやつじゃろう」

「なんでね、それは〇〇じゃーね」

祖父母のこの会話を病院に限らず何度も聞いてきた。
祖父はよく息子兄弟と孫兄弟を間違える。
父には2歳年上の兄がおり、祖父に従う。やんちゃだったが感情に振り回される人ではない。ある意味冷徹で母は少し怖がっていた。それに比べ父はやんちゃどころではなく、15から一人で生きてきたようなもので祖父と仲が悪い。
私の兄弟も何となく同じである。そのためかよく名前を間違える。

思い出話は大いに盛り上がり、面会後にこんな喋る祖父は久々に見たと祖母と母が話していた。

あの日を境に体調が一気に悪化する。


「じっちゃん好きな人🖐️」

私が幼い頃、祖父に会うと毎回これである。そして小4まで続く。
「はい🖐️」と手を上げて大きな声で返事をすればお小遣いが貰える。
素晴らしい制度である。
なにが嫌かというと人前でもやられることだ。
祖母がやっていた居酒屋に行くと遅れて祖父も到着し、まずこの儀式から始まる。


祖父はやばい人か、かっこいい人か

小学5年生の時、母と祖母の居酒屋にて晩御飯を食べていた。
お店の入り口から夜なのにサングラスをかけた怖い3人が入ってくる。
祖母はいつものように「いらっしゃい」と出迎える。
完全に固まった私の横のカウンター席にその人たちは「お久しぶりです」と意外にも礼儀正しく座る。それでも怖い。隣の母に目配せで怖いと伝えるもトンチンカンにも「なに食べる?」と聞いてくる。下しか見ることができないでいると続けて入り口が開いて祖父が来店する。それを見てサングラスを外し、「お疲れ様です」と祖母よりも丁寧に挨拶をした怖い人たち。この時、祖父を初めて怖いと思った。
そして、私、母のことを祖父が紹介する。
「これ、〇〇の息子」
それを聞いてから、サングラスだった人たちは一段と優しくなった。

このことを母に話しても全く覚えていない。
母は怖いという感情が乏しいと見当違いの結論に達したのが当時中2の私。


病院を出禁になった従姉妹

私の従姉妹、16歳のJKは祖父の命令により病院を出禁になった。
ほんの2日前である。

理由は単純、泣くから。

孫の中で最も祖父と仲が良く、そりゃ号泣するに決まっている。
しかしそんな孫を見てしまうと祖父は苦しくなってしまう。
そのため、もう来るなと祖母伝えで言われてしまった。
案の定、その2日前がJKと祖父の最後になりそう。私は最後のその2人が手を繋ぎ、祖父が「ありがとうの、じゃーの」と言って手が離れる瞬間を見た。
亡くなる瞬間よりも尊いものを目にした私も目頭が熱くなるが私も号泣してしまえば出禁刑のため号泣JKを見て我に返った。


受けた愛の返し方

私が祖父にできることは何か考えました。
それが毎日、病院に通うこと。
行けていない日もなんにちかありますがほぼ行きました。

幸運にも私には仕事がないのでできましたが、仕事をまだしていて長期の休みが取れずに二日三日だけのお見舞いで本当に言いたいこと聞きたいことを言えるかというと難しい。死に目に合えないのは確実で仕事を優先せずにもっと会えばよかったと後悔するのがオチです。これはお相手との関係値にもよります。それを踏まえた上で私は周りの人たちは仕事を優先しすぎだと思ってしまった。私が好きでやっていてそれを押し付けるわけではない。

とはいえ私も「今までありがとう」とはっきりと伝えられなかった。
これは予想していたので毎日通うことで姿勢で行動で示した。それが私です。
私の家系の男は本当に不器用です。気持ちなど本音など苦しいなど誰も弱音を吐かない。弱みを見せてたまるか。が私の家系の男です。もちろん女性はそんな私たちを見て「何でこんなに男は不器用でバカなんだろうか」と何度も頭を抱えてきた。祖母も母も私の彼女も呆れてばかり。

祖父はなぜ毎日見舞いに来るのかとは聞かない。
私も見舞いに来て、ほとんど喋らず病院で読書をすることもあった。
私は寂しいとも言わない。祖父も怖いなんて言わない。
しかし、祖母に対しては少し弱音を吐いていたらしい。
それに対して祖母は
「ええ加減覚悟しーや」
と喝をいれる。

私の前では苦しい顔を見せず強がっていたと思うと少しばかり申し訳ない。
だがそれを察して後ろめたさを抱えることが最も失礼にあたる。

私は強い、強くあろうとする祖父が大好きでした。
この入院期間で強くそう思えた。

もう1度目を覚ますことがあればちゃんと伝えようか。

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