見出し画像

【ニュースコラム】大文字から考える日本の“お盆”

―今日は長崎の日
近くの拡声器から響く、何とも沈痛なサイレンの音を聞いた人も少なくないだろう。被害者を追悼する万灯流しは毎年の恒例行事となっている。コロナウィルスの影響に屈せず、平和への願いが書き込まれた灯籠は、今年も浦上川を哀しく彩っているのであろうか。

前日である8日夜11時頃、悲しい事件が京都で起きた。

京都を代表する伝統行事、五山送り火の大文字がライトの様なもので点灯されてしまったのである。もちろん、無許可である。

五山送り火は、お盆に帰ってきた先祖・お精霊さんをあちらの世界へ送り出す灯火(ともしび)である。

ひたむきにこの伝統行事を守ってきた方々に対して、そしてこの灯火に祈りを捧げてきた、何千何万という古今東西の老若男女に対してあまりに失礼であり言語道断である。

そのことをハッキリとお断りした上で申し上げたい。これは、すべてに通じることであるが、物事には原則と例外がある。知識を獲ることの喜びであると同時に、難しさでもある。

NHKの人気番組チコちゃんで「お盆の盆って何?」というテーマが扱われたことがある。その答えは逆さづり。

お釈迦様の弟子の中でも、特に優秀で中心的存在であった弟子を十大弟子と呼ぶ。その一人が“神通第一”というキャッチコピーを持つ目連尊者。その目連尊者が亡くなった愛する母親の行く末を、得意の神通力を使ってのぞき見た。すると、母親は地獄行きとなり、地獄の業火に灼かれながら、逆さづりになっていたという。すぐさま、師匠であるお釈迦様に相談すると、他の弟子たちとみんなで供養をすればよいと言われた。

これが、お盆のはじまりになったとされる、『盂蘭盆経』に書かれているエピソードをまとめたものになる。

ただ、この『盂蘭盆経』は、インドで書かれた正式なお経ではなく、インド以外の地で書かれた偽のお経である偽経であるとの説が有力。一説には、中国で作成され、先祖供養という儒教の考えが色濃く反映しているとも言われている。

よくよく考えてみれば、お釈迦様は釈迦族の王子という地位も家族も捨てて、「出家」をされ修行の旅へと出奔。そうして、悟りの境地へ入り、ブッダとなられた。

家族を捨てて旅へ出るという方に、先祖供養という発想があるのだろうか。先述した十大弟子の中に、“密行第一”と言われたラゴラという弟子がいる。この尊者は釈尊の実子である。ただし、それはあくまでお釈迦様がブッダとなられてから、弟子として入門したのである。

釈尊が亡くなる最後の旅を描いた「涅槃経」にも、先祖供養に関する記載があるようだが、また長くなってしまうので割愛する。

ここまで来ると、仏教というのは何と冷たいということになる。しかしながら、愛する人と別れる苦しみ「愛別離苦」が人間にはあることを定義している。つまり、亡くなった人を偲ぶ心が沸き上がることを否定してはいない。

日本人にとって先祖供養の概念は、宗教心を育む役割を果たしてきたことは間違いのないことであるし、亡くなった方を請い偲ぶ心は誰にも否定することなど出来ない。また、伝統行事として、灯火に手を合わてきた気持ちは尊い。その心を踏みにじる行為は、何人であろうとも決して許されることではない。

さて、原則と例外に話を戻す。原則として、仏教は先祖供養に積極的ではないものの、例外的に日本の伝統的宗教儀礼として、先祖を敬う“お盆”という行事を大切にしてきた。

そんな心持ちでお盆を過ごしてみては、いかがであろうか。

サポートして頂けると、とても励みになります。サポートはブックレビューの書籍購入に活用させていただきます。