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【ニュースコラム】シャルリー・エブド紙の風刺画問題

―またも無用の血が流れてしまうのであろうか

2015年1月に襲撃されたフランスの週刊紙「シャルリー・エブド」が、テロ事件の裁判開始に合わせ、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を再掲載したことが様々な議論を呼んでいるとのこと。

日本では、表現と信仰の2項対立の問題として報道され、理解されていることが、多いのではないかと思われる。

記事にはマクロン仏大統領の談話が掲載されている。

マクロン仏大統領は2日の記者会見で「フランスには冒涜する自由がある」と述べて同紙を擁護した。4日の演説でも「フランス人であることは笑わせる権利、からかい、風刺する自由を守ることだ」と語った。

表現の自由はあるにせよ、冒涜する自由というのは行き過ぎであると感じられる。信仰に限らず、自分が大切だと思うものを、尊重や愛情がまったく感じられない冒涜することを目的として表現されて、気分のいい人はいない。

ただ、テロ事件が起こる前、その風刺内容ではなく、ムハンマドを絵とすること自体が問題となっていた。イスラム教徒の方々が持つ、偶像崇拝へのタブー意識からである。

ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、その信仰対象である“神”は同じであるとされている。基本的に偶像崇拝は禁止されている。仏教も基本的には偶像崇拝を禁止している。ただ、時代を経るごとに、キリスト教と仏教は柔軟な姿勢になっていき、そこから世界的美術品が誕生するに到った。

ユダヤ教やイスラム教は偶像崇拝禁止を今も守り抜いている。ただ、少し不明なところがある。“神”を偶像化して崇拝することを“神”は禁じてはいるものの、預言者を絵として表現することを禁じていたのだろうかという点である。

このあたりは、筆者にはよくわからないため疑問点として提示するに止める。

100年近くも宗教戦争をした反省から、フランスには独特の宗教概念がある。オフィシャルな空間における宗教性を排除して、プライベートな空間においては宗教的寛容を認めるという考え方である。これには一定の合理性が感じられる。ただ、この概念も常に流動的な状況であり、定義することが困難であるとも言われる。

わかりやすい具体例としては、いわゆるスカーフ事件が挙げられる。イスラム教徒の女子生徒が、スカーフをして公立学校へ登校したところ、登校を拒否されたという事件である。

シャルリー・エブド紙に話を戻す。発表の場がテレビなのであれば、オフィシャルと判断され、規制の対象となる蓋然性が高くなる。ただ、シャルリー・エブドは新聞であり、見ないという選択肢が担保されているため、プライベート空間であると判断され、より自由な意見が尊重される蓋然性が高くなる。

単なる表現と信仰の2項対立ではなく、より複雑に入り組んだ状況がフランスにはある。そして、たとえ自由とは言っても、やはり冒涜することを目的とする表現は、ムダな軋轢を起こすばかりで建設的ではない。

そもそも、先に挙げたフランス独特の宗教概念は、あくまで宗教間の軋轢を避け、宗教戦争を未然に防ぐことを目的としている。

ムハンマドの風刺画を再掲載せずとも、テロ事件の写真を表紙にすることや、事件の詳細を記事にすることで意見表明をするなど、他に採り得るべき手段がいくらでもあったはずである。

遠き国より、これ以上の血が流れないことを見守るほかない。

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