【小説】#2承諾(中編) 承諾
続きです。
一瞬、声が裏返った。しまった!そう思ったが、今更取り返しもつかない。取り返しのつけようがない。急いでお茶を飲み込もうとした。「あちっ」そのお茶は熱すぎて、まるで沸騰したてのお茶ではないか、実際にはそんなはずなかったが、武にはそう思えて仕方なかった。
「ごめんなさい。お茶、熱すぎましたか?」
彩子(さいこ)の母親は申し訳なさそうに謝った。
「いえ、そんな。おかまいなく」
やけどを我慢しながらも、そう返した。テレビがついていた。「空振りー、三振!バッター、アウト!」中継者はそう叫んだ。
しばらくして、
「彩子、テレビを消しなさい」
父親は、厳格にかまえ、そう促した。
「はい、父さん」
彩子がテレビを消すと、辺りはしーんと静まり返った。「そうだ」最初に沈黙を破ったのは、彩子の母親だった。彩子の母親はそう言うと、彩子の幼い頃が写ったアルバムを持ってきた。一枚目の写真は、彩子の赤ん坊の頃の写真だった。
「見て、武さん。彩子の赤ん坊の頃。こんなに目をくりくりさせて」
「母さんたら」
彩子が照れくさそうに言う。確かにそれは、彩子が目をくりくりさせて、哺乳瓶をしゃぶってこちらを見ている写真だ。
「こんなにかわいい頃があったのよ」
彩子の母親は懐かしがるように、その写真をじーっと眺めている。ふと、うれしそうな顔で、武の方を見て、
「武さんも、かわいいと思うでしょう?」
さっきからトイレに行こうかどうか迷っていた。「本当ですね。お義母さん」と、そう言うしかなかった。
もう一度、お茶を飲もうとした。今度はもういい温度になっていて、からっからっに乾いたのどを、少しうるおした。しかし、武はまた、しまったと思った。それではトイレを近くさせるだけであったからだ。トイレに行ってはならないというルールはどこにもなかった。しかし、トイレを貸してくださいとは、とても言えなかった。
「あなたも見てください」
彩子の母親はその写真を、父親に見せた。
「ふふ、本当だな」
彩子の父親は、普段見せそうもない笑顔をそこで見せた。一家団欒を絵に描いたような状況だった。武も当然その中に入っていた。ところが、もうトイレを我慢できない状態にあった。
「す、すみません。トイレを貸してください」
つかの間の一家団欒を壊すかのようにそう言ってしまった。
彩子の父親は、重いため息をつき、
「彩子、案内してあげなさい」
彩子は、なんともないような顔をして、
「武さん、ついてきて」
「はい」と、どこともつかないような返事で、立ち上がり彩子について行った。廊下を真っ直ぐ歩いたところで、彩子は、父親と母親に聞こえないように言った。
「たけ、緊張しすぎよう」
「それは緊張するよ」
「今だって、トイレ、もっと早くに言えばいいでしょう」
「だ、だって」
「みんな分かってたわよ、たけがトイレに行きたがってたこと」
「うそ」
「だって、足むずむずさせてたもん。父さんも母さんも、ちゃんと分かってた」
「そ、そうなんだ」
「大丈夫よ。父さん、私たちの結婚、まんざらでもないんだから」
「そ、そうかな」
「そうよ。もっと自信をもって、ファイト!」
「うん」
武がトイレについたところで、彩子はこぶしを握りしめて、武に見せた。それでも不安な面持ちで、トイレへ入って行った。便器の前で用を足した。小便の温度がいつもより高く感じられ、湯気が顔にかかった。
「大丈夫。おれはちゃんとやれてるさ。いいぞ武、いいぞ武」
手を洗う洗面台の自分のうつった鏡の前で、励ますように言って、ほっぺたを両手でたたき、ひとり言を言った。トイレを出て三人のいる場所へ戻っていくと、そこには、おすしがずらりと並んでいた。どうやら武がトイレへ行っている間、届いたようだ。
「武さん、おすしが届きました。こちらへ座って」
母親が、軽く手招きすると、引きずられるように、さっきの席に正座した。
「うむ、武君、まあ召し上がりたまえ」
父親がそう言うと、「はいぃ」と、急に背筋を伸ばし、置いてある割りばしを割った。「あっ」割りばしを割ると、真ん中から急に斜めに割れはじめ、実に中途半端な割れ方をして、その割りばしでは、もう食べられないようになってしまった。
「あらあら、武さんの割りばし、いじわるだこと」母親が笑顔で言う。
「武さん、大丈夫よ。私のを使って」
彩子は自分のを代わりに差し出した。
「あ、ありがとう、彩子さん」かしこまって、彩子にお礼を言う。
「もう」彩子は誰に言うでもなく立ち上がり、武におはしを渡すと、台所へ自分のを取りに行った。
お茶を飲もうとした。しかし、二、三口飲むとお茶はなくなった。
それを見ていた母親が
「新しいのを用意してきますわね」
と、台所へ向かって行った。
武と父親は二人残された。しばらく、沈黙が続き、父親が口を開いた。
「武君は、プロ野球、どこを応援しとるのかね?」
はっと、我に返り
「はい、阪神ファンです」
と答えた。父親は、少し黙り込んだ。沈黙を破るかのように、武はたずねた。
「お義父さんは、どこのファンでしょうか?」
「わたしは、巨人を応援しとる」
父親がそう答えると、二人の間に会話はなくなった。まずい。そう思ったが、時すでに遅しだった。すると、彩子と母親が、二人して戻って来た。助かった。そう思った。
おすしを食べている間、しばらく彩子と母親の会話だけが、そこで交わされていた。あまりおすしに手を加えなかった。いや、加えられなかった。このおすしがなくなった頃に、彩子は武の方に目で合図した。い、いまだろうか。いや、ここまできたら、もう後には引けない。心臓がバクバクし、今にも心臓が口から飛び出すかのように、一世一代の勇気をふりしぼり、父親に言った。
「娘さんを、い、いえ彩子さんを僕にください!」
父親はやっと言ってくれたと言わんばかり、
「武君。君は近頃にはめずらしく実直な青年だ。わたしも以前から、よくわかっていた。彩子は小さい頃から、わがままなところがある。しかし、武君ならきっとそれを、受け止めてくれる。彩子を幸せにしてくれるね」
「お、お義父さん。はい、わかりました。彩子さんをきっと、いや絶対幸せにします!」
「うむ」
はーっ。安堵のため息をつきたかったが、一生懸命こらえた。
しばらくして、母親が緊迫した空気をほぐすように言った。
「二人とも、そんなに硬くならないで。武さん。娘をどうか、よろしくお願いします」
彩子も言った。
「そうよ、何、二人とも硬くなってんのよ。もう、武さんたら汗びっしょり」
武が、手で汗をぬぐおうとすると、母親が手ぬぐいを持ってきて、武の額をふいた。
その日はクリスマスだった。外には、雪がふっていた。しばらくすると、彩子の家からは笑い声が外にもれていた。その年はホワイトクリスマスだった。
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