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日本の学校の、生徒という産物。中1の妄想、想像、憶測、空想。

 どれだけ世界が変わっても、学校は無くならないのかな。

 大人はよく、「学校どう」と言いますね。

 学校どう、なんて‼︎

 「学校」という、曖昧な形のものを、全体としてどう思うかなんて、答えられる人はいるのだろうか。5教科は楽しいけど音楽は嫌です。先生は微妙だけど内容は面白い。内容は好きでも周りはイマイチです。 そんなこと、ばっかりだ。
 きっと、大人は、そういう質問が好きなんだろう。当たり障りがなく、地雷を踏む危険性も少なく、ある程度、相手に興味を持っているように装える質問が。

 大人が(つまりここでいう大人とは、社会的に’’学校’’のことが詳しいと思われている人のこと) 、学校について語る場面はたくさん見る。

 うちは某新聞社の子供新聞をとってもらっているのだが、そこには月一で受験に特化した新聞が挟まれている。

 どこどこの名門校の学園長や、最近の学校の校長や、塾講師や、とにかく教育関連の大人の対談や話をよく載せている。私が受験した学校もよく載っている。

 それを見て思うのは、なんで、教育される側ではなくてする側ばかりが、まるで何もかもを知り尽くしているような顔をして話しているのだろうかということ。

 本当なら、もっと、生徒や児童が話してもいいと思うのだが、どうもそれがうまくいかない。そもそもそんな話に興味のない子や、学校=勉強で考えてしまう人が多いのだろう。そんなことが理由で、結局ずっと、管理職の方々が話していることになる。

 別に管理職の方々、大人が話すこと、それ自体に不満があるわけではない。それらを無くしたいわけではない。ただ、それに加えて、子供の話もしてみたいな、聞いてみたいな、という話。

 私は今、N中に通って、地元の公立にも少し通って、半年前には(世の中的な)難関校の受験もして、東京の私立の見学にも割と行った。習い事の関係で都内で私立の子達と共に過ごすこともある。 

 そこでいろんな観察をする。悪いとかいいとかではなく、きっとこの子はこういう感じなんだろうな、とか、おそらくこの人がこういう言動をするのはこういうことがあるからではないかな、とか。

 面白いな、と思う。多くは妄想、想像、憶測、空想(空想はあまりない。物語ではないからね)。

 学校によって、多くの子どもは何かしら影響を受ける。学校にいる人や、雰囲気や、設備や、行事や、日々の出来事で。それはいいとか、悪いとかはない。でも、少なくとも私の周りには、そのことを意識していそうな人はいない。「行くもの」「大人が用意したもの」と思って、いる。

 もっと、’’時間の過ごし方の一種類’’として、学校をみてもいいんじゃないかな、と思う。そして、そういう考え方をすることによって、もっと自分たちで、当たり前に与えられてしまっている学校、与えてもらっている学校について、考えるようになるのではないかな、と思う。(生徒がそういうことを考えないように、何もかも与えるのも学校だ。)

 これも妄想、想像、憶測、空想ですけど。


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