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第六十九話 坂と背負子と蝉時雨

もくじ

インターネットがさほど普及していなかった時代、紙の地図や口コミだけを頼りに探す「秘境」があちこちにあった気がします。小説に登場するゑしまが磯も、そんな場所の一つ。今回はちょっとした夏の冒険のお話。

◇◇◇

 広場の先からは、昔の生活道路みたいな道が続いていた。樵が使う道なら杣道だが、海女や漁師が使う道は何と呼ぶのだろうか。頭上を木々の葉っぱが隈なく覆い、真昼でも薄暗い。道の外に目を向ければ、林立する樹木の幹に木質化した太い蔓が絡み付き、熱帯のジャングルさながらの様相を呈す。道端に生えたシダやノシラン、ヤツデといった草や低木も、そうした雰囲気に拍車をかける。

「シンさん、大丈夫ですか。会話がなくなってますよ」

 後ろを歩く岡崎の声は、真一を思いやっているのかからかっているのかわからない。

「やっぱり、その荷物、重いですか」

 真一は、磯釣りで使う背負子を背負っている。背負子に結わえてあるのはクーラーボックス二つ、折りたたみテーブル数台に、紐で束ねたイス。量ったわけではないが、四十キロくらいあるのではないか。一歩踏み出すたびに、地面に足がめり込むのがわかる。

「当たり前だろ。じゃんけんに負けたんだし。でも、暑さのほうがきついかもな」

 振り返らずに、手の甲で額を拭った。森の中の道は、気温も湿度も熱帯雨林並みだ。風通しも当然悪く、出発して大して時間が経っていないのにすでに汗だくになってしまった。

「暑さと重さのダブルパンチですね。あー、じゃんけんに勝ってよかった」

 後半はやっぱりからかう口調だった。言い返そうとしたら、

「岡崎さんこそ、息が上がってますよ」
「そうそう、大して重くない荷物なのに。煙草やめたほうがいいんじゃないですか」

 坂戸と竹原が真一に味方してくれた。二人は夏だけバイトに来ている学生。岡崎の後輩。もっとも、サークルなどで繋がっているわけではなく、単に同じ大学に通っているというだけ。バイトを通して知り合わなければ、赤の他人だった。二人も背負子を背負っているが、自前のものではなく、やはり同じ大学に通う波田から借りたものだ。波田は二人より二学年上の三年生で、大学では探検サークルに入っている。毎年、先輩が卒業する度に、要らなくなった道具を部室に置いていくので、この手の道具が腐るほどあって困っているという。坂戸や竹原にも、できれば背負子を引き取ってもらいたいと言っていた。

「アホ。それができたら苦労しねえよ」
「あれっ、開き直りですか。せっかく心配してあげたのに」
「うるせえ。黙って歩け」
「ほらまた、都合悪くなると、そうやって怒ってごまかそうとする」

 真一たちの位置は、ちょうど列の真ん中あたり。道を知っている久寿彦が先頭を歩き、その後ろに四谷、少し距離を空けて美汐と美緒が並んで続く。

 後ろから見える四谷の荷物は、ほとんど塔のようだ。積み上がったダンボールや発泡スチロールの箱は五段を数え、重量も七、八十キロくらいありそう。使っている背負子も真一たちのようなアルミ製ではなく、木製の本格的なもの。四谷は田舎にいた頃、親戚の営む山小屋でアルバイトをしていて、歩荷の経験もあるという。去年の夏休みも里帰りして、ずっと山小屋を手伝っていたらしい。真一たちには、荷物の積み方や立ち上がり方、歩き方のコツを教えてくれた。じゃんけんには参加せず、重い荷物を背負ってくれたので、全員の負担が軽くなって助かった。

 岡崎たちの後ろには、真帆と葵と夏希が固まって歩き、最後尾に西脇と益田がつける。

 夏希は葵の紹介で店に入った女の子。葵の高校時代の同級生。小柄で、さらさらのショートヘアが似合う可愛らしい子だ。性格はおとなしめだが、暗いわけではなく、それが彼女の自然体と言うのが適切な表現。集団の中で目立つ存在ではないが、浮いてしまうこともない。人の輪の中にさりげなく溶け込むことができる――これも一つの特技だろう。店では、人手の少ない曜日と時間帯にパートに入っていて、マスターからありがたがれている。

 しばらくすると、森の端に達して、谷側の見通しが良くなった。ただ、海は見えず、谷の向こうには、濃緑の山斜面が立ち塞がるのみ。斜面を白っぽく染めているのは、カラスザンショウの花だろう。色は淡くても、濃い緑の中で見ると爽やかだ。道は陽当りが良くなって、大型の蝶が目につき始めた。ナミアゲハ、アオスジアゲハ、モンキアゲハ、ジャコウアゲハ……都会で見かける蝶のほか、あまり見かけない蝶もいる。道に水が染み出した所で、カラスアゲハが吸水している。人の気配に気づいて飛び立つと、青いラメが入ったような黒い翅が輝いた。陽射しの加減で、深みのある青い光沢が消えたり現れたりする。まるで夜光虫の光が明滅する海を見ているようだ。ひょっとして海から生まれた蝶なのでは、と思ってしまいそうになる。ひらひらした影に気づいた美緒が腕を伸ばして指先に止まらせようとしたが、カラスアゲハはふわりとかわして、谷間の上空へ逃れていった。黒いキャンバスの赤い斑紋とメタリックブルーが互いに引き立て合う様子を、真一はぼんやりと見送る。蝶の女王と呼ぶにふさわしい、華やかな後ろ姿。

 背後でどっと笑い声が上がり、岡崎たちが歌を歌い出す。嘉門達夫の 「ゆけ ゆけ 川口浩」。昭和のテレビ番組、「水曜スペシャル」 の人気企画を茶化した歌だ。背負子を背負って歩いているうち、かの探検隊の一員になった気がしてしまったのか。昼なお暗い照葉樹林は、熱帯のジャングルさながら。「猿人バーゴン」 や 「怪鳥ギャロン」 が潜んでいると言われても、なるほど違和感がない。

 やがて、道の突き当たりで久寿彦が足を止めた。

 雑談に夢中だった岡崎たちのペースは遅れ、今の真一の後ろには誰もいない。もっとも、少し離れた所から笑い声は聞こえる。

 久寿彦と四谷は、右に折れ曲がった道の先を見つめている。横顔の顎の角度に嫌な予感を感じたら、

「うげっ、何なのこれ!?」

 美汐のリュックが跳ね上がった。一緒に足を止めた美緒も右を向いたのち、真一のほうを見て気の毒そうな顔をした。

「おいおい、マジかよ……」

 四人の所まで行って同じ方向を見た真一は、思わず顔をしかめた。

 曲がり角の先に、どーん、と効果音が聞こえてきそうなほど急な坂道が待ち構えていた。まっすぐな区間は五十メートルほどでも、山の高さからして、カーブの先にもまだまだ坂が続いているに違いない。

「さあ、こっからが正念場だな」

 じゃんけんに勝った久寿彦には、真一の不幸を笑うだけの余裕がある。

「こんな坂があるなら、最初から言ってくれよ」
「言ったところで、坂がなくなるわけじゃないだろ」
「もっと頭使ってじゃんけんしてたよ」

 はあ、とため息をついて、四谷を見た。四谷の荷物は、量、重さともに真一の倍くらいある。歩荷の経験があるとはいえ、さすがにこの坂を上るのはきついだろう。

 久寿彦も無理に、行け、とは言わない。黙って四谷の挙動を窺っている。

 だが、四谷は動き出さない真一たちを不思議そうに見つめ返し、じゃあ僕が行きます、と先に立って歩き始めた。危なげない足取りで、坂を上り始める。重みに耐えている様子はない。一歩一歩着実に、平地を歩くのと変わらない安定したペースで坂を上っていく。

「何だかロボットみたいだな」

 真一はぽかんとしてつぶやいた。大柄な四谷だが、特に筋肉質というわけではない。ただ、骨がやたらと太く、肩や膝の関節は見るからに頑丈そうだ。ブランクがあるからこれでも荷物は軽くした方です、と言っていたが、いったい普段はどれくらい背負っているのだろう。

「俺たちも行くか」

 久寿彦に促されて真一たちも歩き出す。

 坂の手前で一列になった。ここから先は道幅が狭くなる。久寿彦の後に美汐が続き、美緒、真一の順に坂を上り始める。

「何じゃあ、こりゃあ!」

 ほどなく、ジーパン刑事みたいな坂戸の叫び声を背中に聞いた。

「うわー、勘弁してくれー」

 竹原も悲鳴を上げている。

 だが、真一は振り返らない。うっかり振り返ったら、重心が後ろに偏ってひっくり返ってしまうだろう。坂の途中で転倒したらケガするかもしれないし、しなくても荷物の中身をぶちまけたら大迷惑だ。

 前傾姿勢を崩さず、一歩前に出る。思った以上に、上り坂はきつい。踏み込むたびに、太ももやふくらはぎがはち切れそうになる。四十キロ程度と見積もっていた荷物の重さは、実際にはもっとあるのではないか。平らな道を歩いていたときは景色を楽しむ余裕もあったが、最初の十歩くらいでそんなものは吹き飛んでいた。

 ふと前方を見上げると、カーブの陰に美緒が吸い込まれようとしていた。気づかぬうちに、かなり差が開いてしまっていた。美緒も背負子を背負っているが、荷物の重さは真一よりずっと軽い。

 道幅が狭くなったぶん、森との距離が近くなった。左右の木叢に、蝉時雨が雷鳴のごとく轟いている。人間に対する警戒心が薄いのか、逃げ場がないほどセミが密集しているのか、人が通りかかっても飛び立とうとしない。少し歩みのペースが落ちてきた。だが、こんな場所で休むことはできない。セミの大合唱を自分への声援だと思って、また一歩足を前に出す。

 美緒が消えたカーブの口にやって来た。前方にまだ上り坂が続いている。わかり切っていたこととはいえ、実際目にしてしまうと、失望が両肩にのしかかる。

「ぐう……」

 無意識に声が漏れる。顔中に汗が噴き出しているのがわかる。顎の先から滴り落ちたしずくが、ぽつぽつと地面に黒い染みを作っていく。風通しの悪い森の中は、ほとんど蒸し風呂状態だ。道端に咲く白いノシランの見た目は涼しくても、火照った体を冷ましてくれる効果まではない。

「うおーっ」

 やけっぱちの大声が出た。叫ばずにはいられなかった。どうにかこうにかして自分を奮い立たせないと、暑さで朦朧として、がくんと膝が折れてしまいそうだ。だが、すぐに叫んだことを後悔する。後続の人間が驚いて転ばないとも限らない。重い荷物を背負った状態では、ちょっとバランスを崩しただけで転倒に繋がる。こんなとき、どうしたらいいのだろう。山伏みたいに 「六根清浄、お山は晴天」 と歌えばいいのか。山歩きのプロの四谷に聞いておけばよかった。

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