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第七十八話 泳いで帰ろう

もくじ

「そういや、みんなどうしている?」

 岩礁を出発して少し経ったところで、真一は隣の美緒に訊いた。

「みんなって?」

 平泳ぎの腕を掻きながら、美緒は横目で訊き返す。

「島に来なかったみんな。松浦とか真名井さん」

 ちょうど潮止まりになったのか、凪いだ海は泳ぎやすい。そんなに腕に力を込めなくても、すいすい体が前に進んでいる。遥か先に、ボディボードに腹這いになった岡崎の後ろ姿が見える。岩礁から砂浜までの距離はけっこうあり、あんなに遠くまで泳ぐのはきついですよ、と泣きついた岡崎に、美緒がボディボードの道具一式を貸してやったのだ。フィンを装着していれば、肺活量の乏しい岡崎でも、真一たちより泳ぐスピードはずっと速くなる。もう島の先まで行ってしまったように見える。ちなみに、イワシの袋は岡崎のボディボードの上。

「真名井さんは、真帆たちと釣りに行ったよ。東側の磯は危ないからって、西のほう」
「真帆? あいつらもベースキャンプに戻ったの」
「全員一緒に戻って来たけど?」

 美緒が不思議そうな顔をする。真一が、久寿彦に袋を持って来て欲しいと頼んだから久寿彦だけが戻ったのかと思った、と説明すると、ああ、と納得した顔になった。

「でも、砂浜に人がいるのに気づかなかった?」
「まったく」
「見えない距離じゃないでしょ」
「トンビにエサをやってたんだ」

 美緒が岩礁に来るまでの間、岡崎とトンビのエサやりに熱中していた。岩礁には潮溜まりが二つあって、真一たちがイワシのつかみ取りをしたほうとは違う小さい潮溜まりにもイワシがいた。ただ、こちらの潮溜まりは、陽射しに温められて温泉みたいになり、五、六匹いたイワシもすべて茹で上がっていた。死んだイワシを拾い集めて、ヒマつぶしに上空のトンビに投げ与えていた。トンビは空中でエサをキャッチすることもあれば、海面に落ちたエサをつかみ損ねることもあった。真一たちは驚嘆の声を上げたり、失敗を笑ったりしながら、ずっとトンビの行動を見守っていた。

「確かに、二人とも沖のほう見てたね」

 美緒は今更思い出した顔をして前を向いた。真一も泳ぎながら周囲を見渡す。前方に白い砂浜、東側に飛び込みをやった島が見えるが、どちらもアクアマリンの海面が距離を隔てている。島にいたとき雷鳴のようだったセミの声は、ここではだいぶ落ち着いて、夏の午後に聞こえる遠雷程度の大きさになった。自分たちは今、入り江のどの辺を泳いでいるのだろう。それこそトンビみたいに上空から見下ろすことができれば一目瞭然なのだが、海面に浮かんだ状態では、周りとの位置関係をいまいち把握しづらい。

 美緒は松浦も釣りに行ったと言った。真一たちが島に向かってすぐ、坂戸と竹原を引き連れてベースキャンプを出て行ったという。松浦は昨夜ボウズだったことがよっぽど悔しかったらしく、今度は絶対釣ってやる、と息巻いていたそうだ。

 益田と西脇と四谷は何をしているかわからない。美緒のほうが先に真一たちの待つ岩礁へ出発したからだ。波田はまだベースキャンプに戻っていない。岩礁へ来るはずだった久寿彦は、美汐とシュノーケリングに行った。美緒が久寿彦から聞いたところによれば、ベースキャンプの西側に浅い岩棚が張り出した場所があって、カラフルな熱帯魚がたくさん集まっているという。近くに木陰があるから、色白の二人でも休み休みシュノーケリングを楽しめるそう。

 久寿彦と美汐が一緒にシュノーケリングに行ったと聞いて、真一は岬の広場で見た光景を思い出した。眺めの良い柵の手前で、二人は頭を寄せ合って遠くの島影を見つめていた。その様子は、まるで――。

「あいつらってデキてんの?」

 単刀直入に訊いた。

「……どうして?」

 美緒はぎょっと目を見開いてから、声のトーンを落として、探りを入れるように訊き返してきた。

「何となくそういう気がしたから」

 真一は美緒の視線をかわすように前を向いて答える。一度は否定した考えだ。だが、あれから思うところがあった。

 車に乗っていた頃、カーステレオから流れる音楽のことで、美緒と久寿彦が険悪な雰囲気になった。美緒はうるさいから音楽を止めろと言い、久寿彦はお気に入りのアルバムを立て続けに悪し様に言われて、意固地になってしまった。事態が好転する見込みはなく、真一は、いっそのこと久寿彦のバンド時代の曲でもかけてみれば、と言ったのだが、意外なことに美緒はその案を否定しなかった。このときの美緒の態度が、岬の広場で見た光景と結び付いた。つまり、美緒は二人の表立っていない関係を知っていて、美汐に忖度したのではないか。久寿彦の好きなバンドの曲にケチをつけても、さすがに久寿彦のバンドの曲までは悪く言えなかった。そこには、美汐の思い入れもあるだろうから。

 真一の言葉に、確信めいた響きを感じ取ったのだろうか。美緒は、ふうっと観念したようなため息をついた。

「デキてるってわけじゃないよ。美汐の片思い」

 予想は外れた。だが、まったくの外れというわけでもない。

「言っとくけど、誰にも言わないでよ」

 切れ長の目で、すかさず釘を刺してきた。

 口止めの理由は、言われなくてもわかる。ようするに、久寿彦にその気がないのだ。美汐は自分の気持をうまく隠しおおせているが、久寿彦は隠す必要がないだけに、態度に気持ちが表れる。久寿彦にとって、美汐は友達以外の何かではない。真一の目にも明らかだ。当の美汐もそれを知っているからこそ、事実が知れ渡って久寿彦の耳に入ることを恐れている。

「ほかに知ってる奴は?」
「私とシンさん以外は、芳一だけ」
「はあ? 何で四谷が、」

 思わず大きな声が出てしまったが、ハッと思い当たった。コンビニ脇で美緒が四谷を怒鳴りつけていたこと。あのとき、美緒は美汐の名前を出していた。

「その話は長くなるから、またあとで」

 真一がもう一度質問しようとしたら、美緒が先に話を断ち切ってしまった。
 四谷が秘密を知った経緯はちょっと気になる。だが、長い話なら仕方ない。
 前方では、岡崎があと少しで砂浜に到達しようとしていた。
 真一たちの周りも、水の色が明るくなった。水深が浅くなってきた証拠だ。

「砂浜まで競争しよう」

 話題がなくなって、言ってみた。美緒はボディボードの上級者だ。女性にしては長身で、背丈は真一と同じくらいある。だから、いい勝負になると思ったのだ。

「いいよ。平泳ぎ? クロール?」

 唐突な提案に一瞬顔をしかめた美緒だったが、すぐに表情を緩めてそう言った。

「平泳ぎ」

 ずっと平泳ぎで泳いできたので、肩慣らしは済んでいる。

「じゃあ、合図して」

 不敵に笑う。素人には負けないと思っているのだろう。だが、真一だって水泳は得意だ。同じような顔でうなずくと、二人で前を向く。

「よーい、スタート!」

 声を張り上げると同時に、ライトブルーの水面を目いっぱい掻いた。

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