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第七十三話 ニッポンの夏の色/飛び込み

もくじ

今回のお話とは関係ありませんが……
そろそろホタルの時期ですね。本作品には、ホタルを題材にしたお話もあります。第四十六話「蛍の川」です。主人公の少年時代のエピソードですが、掌編程度の文字量でサクッと読めます。中身はちょっぴりホラーな笑い話です。蛍狩りのお供にして頂けたら嬉しいです。

◇◇◇

 結局、麦茶――炭酸抜きのビールだ、と久寿彦がふざけて言っていた――で乾杯すると、真一、久寿彦、岡崎、四谷の四人で、ベースキャンプの南東に浮かぶ小島に渡ることにした。緑の島には木陰があって、周りを海に囲まれているため、砂浜より涼しいそう。それでもなお暑かったら、海に飛び込めばいい。久寿彦が言うには、島の南側は絶壁になっていて、飛び込みをするのにちょうどいいという。

 白砂の浜は、歩いても熱くなかった。サンダル履きの足の指に砂がかかっても、砂の感触がするだけ。汽水池のあった海岸は、裸足で歩こうものなら、足の裏から火が噴き出しそうなほどだったが、ここでそんな心配はいらない。

 島の正面に来たところで、久寿彦が足を止めた。島は海面にうっすらと顔を出した岩棚と一続きで、陸繋島みたいになっている。まだ潮が引いている最中だから、もう少しで完全に棚が露出するはずだ。

「気をつけて歩けよ」

 岩棚に踏み込んだ久寿彦が、後に続く人間――特に四谷――に注意を促した。岩場では絶対に転んではいけない。転倒は大けがに繋がるからだ。剣山の上を歩くくらいの感覚でちょうどいい。大げさでも何でもなく。

 島までの距離は大したことなかったが、慎重に歩いたので、辿り着くのにけっこう時間がかかった。久寿彦が上陸しやすい場所を示し、真一も岡崎に続いて岩の段差をよじ登る。

 島は東側が岩場、西側に小ぢんまりした森がある。森は一メートルちょっとの低い崖の上に形成され、そばに行ってみると土壌との境目に、ツワブキ、オニヤブソテツ、マルバグミなどの草や低木が確認できた。そこから森の中心に向かって、トベラやマサキなど、より樹高のある木々に取って代わられる。一方、崖の切れ間に顔を出したラセイタソウという草は、葉っぱがアジサイにそっくりで、一瞬見間違えそうになってしまった。こんな小さな森にもセミがいて、何種類ものセミが音色を競い合っている。

 久寿彦に呼ばれて島の南側へ行くと、確かに、飛び込みにうってつけの岸壁があった。島は東側が低く、西側に向かうにつれ足元が高くなっていくが、ちょうど中間くらいの高さの所から下を覗いてみた。海は緑味の強いラムネ色。透明度がとても高く、底の様子まで見透せる。色の濃い部分は岩場、白っぽい部分は砂地だろう。岩場の周りで、海藻の影も揺れている。

「僕の田舎の川も、こんな色をしてました」

 隣で足下を覗き込んでいる四谷が言った。視線を辿ると、岸壁が作るわずかな影の中で、ネンブツダイの群れがじっと身を潜めている。金魚みたいな赤い小魚。釣りの外道だが、四谷は興味をそそられたようだ。

「学校に行く途中に 『龍宮淵』 って場所があるんです。川沿いの道路から対岸の崖が見えて、夏になると、よく子供たちが飛び込んでました」

 龍宮淵……。山の中なのに? 不思議に思って訊いてみると、淵の底が海の龍宮に繋がっているという言い伝えがあるのだと四谷は答えた。その昔、崖から落ちた男が、淵の底の輝く穴に吸い込まれて、海の龍宮まで行ったのだとか。

 四谷の田舎は山奥だから、水はきれいだろう。澄んだ川面に向かって、元気よく飛び込む子供たちの姿が目に浮かぶ。真一は海に馴染み深いから、ラムネ色から海の色を連想してしまうが、山国出身の四谷にとっては、山あいを流れる川の色なのだろう。海の色であり、川の色でもあるラムネ色は、日本の夏の色だと思った。

◇◇◇

「よし。そんじゃ、じゃんけんすっか」

 パン、と手を打って、久寿彦が拳を突き出す。

「じゃんけんって、何の?」
「飛び込みの順番に決まってるだろ」

 真一たちの返事を待たず、握った拳を振り上げる。

「最初はグー」

 考える間もなく真一はパーを出したが、ほかの三人はチョキを出していた。

「はい、決定ーっ」
「チッ」

 舌打ちした真一の周りで、パチパチと三人の拍手が鳴り響く。

「で、どこから飛び込めばいいんだよ」

 飛び込み自体はべつに嫌ではない。ただ、体を酷使して疲れが残っていたので、もう少し休んでからにしたかった。

「あそこだな」

 久寿彦が島の南西の隅っこを指さす。

「いちばん高い所じゃねえか」
「当たり前だろ。じゃないと面白くない」

 その場所は、船の船首のように岩がせり上がっている。海に向かって突き出し、これ以上飛び込みにあつらえ向きの場所はない。高さは真一のアパートの二階くらいか。

「言っとくけど、頭から行けよ」

 ニヤニヤ笑いながら、久寿彦は真一を値踏みするような目で見た。

「初めてここに来た奴はみんなそうしてます。通過儀礼みたいなもんですよ」

 岡崎が横から付け加えた。すると、久寿彦が急にそらとぼけた顔をし、

「どうしても怖いっていうなら、足からいってもいいけどな」

 額面通りに受け取れる言葉ではない。裏があるに決まっている。

「ま、その場合は、フルチンで飛び込んでもらうけど」

 ぶははっ、と岡崎が笑う。どうせ、そんなことだろうと思った。お利口な友達を持つと、こうしたことに巻き込まれることがままある。

 真一は脱力して隣を窺う。四谷は涼しい顔。自信あり、ということなのだろう。少年時代、龍宮淵で相当鍛え上げたに違いない。

 真一も高い所からの飛び込みは初めてではない。昔住んでいた団地からバスで行ける所に、大きなレジャープールがあった。多種多様なプールのうち、飛び込み専用プールもよく行ったプールの一つだ。

 サンダルを脱いで高台へ向かおうとしたら、久寿彦が歩きやすいルートを教えてくれた。森のほうから回り込めば、ゴツゴツした箇所を通らなくて済むという。

 その通りに歩いて高台まで行き、海面を覗く。波の綾がさっきよりもだいぶ小さく見えた。軽く目眩を覚える高さだ。海面からは三メートルないはずだが、自分の視点の高さが加わるので、実際より高く感じる。

「おーい、ビビっちまったかー」
「早くしないとフルチンですよー」

 深呼吸して精神統一を図ろうとしたら、横槍が入る。

「黙ってろ」

 振り返った真一は、ビシッと野次馬を指さした。

 視線を海面に戻すと、潮の流れを確かめた。島の周りは流れが発生しやすい。特に今は下げ潮だ。速い流れが出来ていたら、沖に流される危険がある。

 だが、問題になるような流れはなかった。ほかの怪しい場所に目を向けても、強い流れは見当たらない。まあ、急に流れが生じたら、西側が広く開けているので、そちらへ逃げればいい。障害物のないだだっ広い場所に強い流れは出来にくい。波のある海岸なら、それでもどこかしらに離岸流が発生するが、波静かな入り江ではあまり心配はいらない。

 考えていたら、カウントダウンが唱えられ始めた。

「10、9、8……」

 真一としても、足の裏の熱さが限界だった。海面を見つめることだけに意識を集中する。波の綾の下に広がる透明なラムネ色の世界。朧げにわかる底の様子がとても涼しげで、一瞬、フルチンで飛び込むのも気持ちいいかも、と誘惑に駆られたが、久寿彦たちに見下されるのはやはり癪だ。カウントダウンが3を切ったところで、覚悟を決めて両足を踏み切った。

 想像以上に長い滞空時間を経て海面に突き刺さり、冷たい水の感触が全身を包み込む。深く潜って上昇に転じ、目を開けると、クラゲのように揺れる太陽から、何本もの白い線条が海中に差し込んでいた。無数の泡が身の周りに立ち昇っている。まるで自分自身がラムネのビー玉になって、青緑色のビンの中に落ちてしまったようだ。ビンの中は見た目通り涼しくて、ゆっくり留まっていたかったが、息が続かない。出口の白く歪んだ太陽を目指して腕を掻く。

「ぷはっ」

 水面に顔を出すと、わっ、とセミの声が復活した。小ぢんまりした島の森では、何種類ものセミが声を競い合っている。普段、海の中からセミの声を聞くことなどないから、貴重な体験だ。顔を拭って、音のシャワーを浴びるように森を見上げた。

「いやあ、お見事お見事。てっきり泣きを入れると思ったんだけどなあ」

 岸壁の上で久寿彦が拍手している。

「わかってないなあ、シンさん。ここはフルチンでいく場面でしょ」

 岡崎は不満そうに、お笑いを理解していないとか、サービス精神に欠けるとか、真一をなじったあと、島の東側の上陸しやすい場所を指し示した。

 久寿彦たちの所へ戻ると、入れ違いで四谷が高台に立った。

 高台のてっぺんには半畳ほどの平らなスペースがある。そこに足を揃えた四谷は、遥か沖合を見据えて両腕を水平に広げた。集中力を高める動作かどうかは知らないが、板についていて、踏んだ場数の多さを物語る。ゆっくり腕を下ろすと、大きく息を吸い込み、岩の上の足を踏み切った。百九十センチの巨体が宙を舞う。その様子は実にダイナミックで、空を飛ぶクジラを見ているようだ。ゆったりと落下して、海に吸い込まれる。四谷が消えた水面に、小ぶりな水柱が立ち上がった。精度の高い飛び込みの証だ。水柱は小さければ小さいほどいい。長い間を挟んで浮き上がった四谷に、真一たちは島の上から拍手を送った。

 残る久寿彦と岡崎だったが、久寿彦は真一を煽ったわりには、高台で恋々とためらった挙げ句、カエルの飛び込みみたいな不格好な飛び込みをさらした。一方の岡崎は躊躇せず飛び込んだものの、足からの飛び込みで、水面に顔を出すや、お目汚しでした、と肩をすぼめて謝った。

 島に上がった二人を問い詰めたところ、頭からの飛び込みの話は、久寿彦の場当たり的な思いつきだった。岡崎も久寿彦に合わせたにすぎない。元々そんなルールはなく、去年は二人とも足から飛び込んだという。

「ほら、筒川さんが変なこと言い出すから……」
「俺はお前と違って根性見せたぞ」

 最後は仲間割れみたいなことになって、醜態をさらす二人。恥の上塗りだ。

 一方、真一は飛び込みで火照った体が冷まされて、少し元気を取り戻した。

「じゃ、もう一回いってみるか」

 そう言うと四谷が、はい、と答え、久寿彦たちも決まり悪そうに同意した。

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